バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

科学と経済を軽視したら……

先日、畜産物に含まれる放射性物質の安全性や低減に関するシンポジウムに参加しました。
参加者の大半は研究者や技術者でしたが、少し雰囲気の違う集団がいました。思い詰めたような表情が見て取れましたので、恐らく「市民グループ」だろうと予想は付きました。最後の質疑応答の際に、2・3人が質問していましたが、その内容でさらに「市民グループ」だろうとの確信は深まりました。「不安だ」「政府や科学者の言うことは信用できない」「消費者の立場に立って欲しい」「子供を守りたい」と繰り返すばかりでしたので。

講演者のスタンスの一部を私が勝手にまとめると、以下のようになります。全く妥当だと思います。

  • 農産物中の放射性物質の含有量の基準を厳しくしても、もともと微量だから安全性はほぼ変わらない。
  • 基準を厳しくすると、農産物の流通量が減って価格が上がる。
  • 新たな基準を満たすために生産コストが増える(除染や設備投資などで)。
  • 基準を厳しくするには検査体制を強化しなければならない。そのためには、検査機関の設備や人員を大幅に増強する必要がある。これも生産コストの増加につながる。
  • 新たな基準の下で農産物を作れなくなった農家に対する補償が必要。
  • 以上の生産コスト増加により、農産物の価格がさらに上がる。
  • 以上より、農産物中の放射性物質の含有量の基準を厳しくすることは経済的に妥当ではない。

ところが、この説明が「市民グループ」の方々にはお気に召さなかったようです。
経済だけで考えないで下さい」と、一見まともなようで、実は何も考えていないことを如実に物語る言い草を披露してくれました。
「経済的に妥当ではない」ということは、結局は農産物の価格が上昇して消費者の負担が大きくなる、つまりは自分で自分の首を絞めるハメになる、ということなのですが、それが理解できないようです。これはなぜなのか。経済をどう考えているのか。

話は変わりますが、疑似科学を信じている方々とネット上で意見を交わして気付いたことがあります。
それは、科学を「何の役にも立たない科学者の遊び」「机上の空論」「自分の生活には関係のないもの」と捉えているということです。従って、科学に価値を置いていないので、科学的な批判は全く無意味です。疑似科学が実践者本人、あるいは社会に害をもたらす、と力説しても相手にされません。
同じことが、経済にも言えるのではないかと思います。

今後、原子力発電所をどうするか。全廃するのか再稼働するのか。風力や太陽光などの開発中の発電方法を拡大させるのか。これらの問題は多分に経済的側面を含んでいます。したがって、経済的に考える必要があります。早い話が損得勘定をしなければならないということです。

ところが、この問題には常に極論が付きまといます。「経済より命」という変なスローガンがいつの間にやら定着しているようです。
曰く、「原発事故に怯えるより経済が低迷する方がマシ」「少しぐらい貧乏になってもいいではないか」云々。
要するに、先に述べた科学への感覚と同様に、「経済」というものを「国や企業の問題」「自分の生活には関係のないもの」と捉えているからこそこんな非現実的な考え方ができるのでしょう。先に述べた疑似科学信者と同じで、経済に価値を置かないので、経済的な批判は無意味です。

ただでさえ不況なのに、原発を停止して新たな電力に依存することで経済がさらに悪化することの意味を考えていないようです。いささか極端な例ですが、「勤務先の企業の業績が悪化したり倒産したりして失業し、一家が路頭に迷う」という状況を想像できないのでしょうか。これでは命を守るのも難しくなります。


疑似科学でも脱原発でも食品の安全性でも、科学や経済を自分に直接かかわる問題だと思えない人が極論に走る、ということを痛感しました。
何事も、自分の希望が全て通るなどということはまずありません。必ずある程度の妥協が必要となります。妥協する際の判断基準は何か脱原発や食品の安全性について考えれば、間違いなく科学と経済でしょう。
科学や経済が軽視される事態は、もちろん科学と経済自体にとって不幸ですし、何より我々自身にとって不幸です。