バッタもん日記

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日本の主食は本当に米なのか その1

1.はじめに
食育や食料自給率とも関連しますが、「日本の主食は伝統的に米である。日本人はもっと米を食べるべきだ」という意見があります。
私も基本的にはこれに賛成です。日本は米を完全自給できています(加工用米を除く)。それどころか、余ってどうしようもない状況です。つまり、米の消費が増えるのは農業にとって非常に望ましい状況です。日本の農業は水田稲作が主体ですので、米の消費拡大が進み、農業振興につながることを期待します。
ただし、個人的には「日本の主食は米である」という点に関しては少し疑問です。米の消費拡大はいいのですが、そのための根拠としてこれは不適切だと思います。
さらに、この手の話には、「元々日本の主食は米だったのに、戦後アメリカが日本に小麦を押し付け、日本の食生活を破壊した」という陰謀論や、「米は健康に良い。米を食べれば病気にならない。小麦は健康に悪い」という疑似科学も付き物です。どうも、「日本=米食」かつ「欧米=小麦食」という短絡的な図式があるようです。そのため、「日本の主食は米である」との主張には排外主義やエスノセントリズムが付きまといます。
果たして本当に日本の主食は米だったのでしょうか。その辺を考えてみたいと思います。
参考文献は最後にまとめて提示します。
修正を繰り返していたら無駄に長くなってしまったので、読むのが面倒な方は、赤字の部分だけ読んで下さい。それで私の主張が十分伝わるようになっております。

2.米という作物
(1)起源
現在日本で栽培されている米は、オリザ・サティバ(学名:Oryza sativa)という植物です。野生の稲であるオリザ・ルフィポゴン(学名:Oryza ruffipogon)を改良することで生み出されたとされています。また、サティバ種はジャポニカjaponica)・インディカ(indica)・ジャバニカ(javanica)の3つの亜種に分類されます。日本の米はその名の通りジャポニカ亜種です。下で述べる、平成の米騒動の際に緊急輸入されて評判の悪かったタイ米は、インディカ亜種です。日本人にとっては意外なことかも知れませんが、世界的にはジャポニカ亜種よりインディカ亜種の方が主流です。(※1)
稲作の発祥の地はまだ完全に明らかになったわけではありませんが、中国南部からインドシナ半島にかけての亜熱帯地域であることはほぼ確実であると言われております(参考)。つまり、稲はもともと高温多雨の亜熱帯地域の作物だと言えます。これを念頭に置いて下さい。

また、意外なことにアフリカにも在来の米があります。オリザ・グラベリマ(学名:Oryza glaberrima)という種です。色々と優れた特徴を有していますので、この種をサティバ種の品種改良に利用する研究が進んでいます。
アフリカにも米がある以上、米をアジアの食文化の象徴であるかのように称賛するのはあまり正確ではありませんね。
また、中国の穀物生産量を見ると、米は1億4000万tぐらい、小麦は1億2000万tぐらいです。あまり変わりませんね。これでは「米が東アジアの食物の象徴だ」と強弁するのは難しいと思います。

(2)栽培
日本の国土の大半は温帯か亜寒帯です。亜熱帯と呼べるのは、沖縄県の全域と鹿児島県の一部、小笠原諸島のみです。日本の地域によっては、気温が十分ではないこともあり得ます。
平成5年には冷夏のため米の生産量が激減し、日本中が大騒ぎになりました。いわゆる平成の米騒動ですが、この時に最も被害が大きかったのは、北海道と東北地方の太平洋側地域です。この時に限らず、これらの地域では夏の冷害が米に被害を及ぼしますが、他の地域ではあまり問題になりません。亜熱帯の作物である米を寒冷な地域で栽培するのは難しいということです。
栽培技術の進歩と品種改良が著しい現代でも冷害には苦労するのですから、近代以前は言うまでもありません。江戸時代には東北地方は度重なる飢饉に苦しみました。また、北海道にコシヒカリを導入するには大変な苦労がありました。

また、気温が十分でも水が確保できなければ水田稲作は難しくなります。水田稲作の最大の特徴は水を大量に消費することにあります。雨による水だけでは足りませんので、川から水を引かねばなりませんが、川がなければどうにもなりません。沖縄が気温や降水量が十分なのに、水田が少ない一番の理由がこれです。そのため、米よりはイモ類が主体となります。
水田稲作には、大量の水を確保できる川が不可欠です(ため池で補うにも限度があります)。香川県が「うどん県」と呼ばれる理由もここにあります。降水量が少ない上に大きな川もないので、米作りには向かない土地です。その代わり、乾燥に強い小麦に向いています。
水不足により米作りが難しい地域もあったということです。
なお、稲作の方法として、水田以外に畑で稲を栽培することも可能です。これは水田で栽培される「水稲」と区別するために「陸稲」と呼ばれます。陸稲水稲のように大量の水を必要としませんので、川がなく水田が造れない土地でも稲作が可能となります。しかし、当然ながら水田より収穫量が少なくなるという問題があります。

中国を見ると、気温と降水量の関係で、南から北に行くにつれて米の生産量が減少し、逆に小麦や雑穀の生産量が増加するのがわかります。

さらに、当然ながら水田には長期間水を張ります。したがって、地面が水平でないと水が漏れます。そのため、水田が造れるのは平坦な土地に限られます。土木機械や測量機械がない時代では、土地を水平に整備するのは難しいのです。斜面では棚田という方法もありますが、開発及び維持・管理に要する労力が非常に大きくなります。

以上より、「日本国内で稲作に適した地域は温暖で水が豊富な平野部に限られるので、意外に少ない」と言えます。

3.言葉の定義
「米は日本の、日本人の伝統的な主食である」という言説を言葉の定義の点から詳しく考えてみます。

(1)「日本」ってどこ? 地理的考察
「日本」という言葉が指す地域は時代により変わります。明治時代までは、北海道と沖縄は政治的な意味では日本ではなかったと言えます。
また、日本は南北に広い上に地形が複雑なので、地域により気候条件が変わり、上に述べたように稲作に不向きな土地もあります。気候や地形などの環境条件により、栽培される作物は変わります。
当然ながら地域によって食生活は変わります。米を主食だと主張したがる人々が蔑視する欧米の食事も、地域によって全く違うわけです。

(2)「日本人」って誰? 社会的考察
つい150年ほど前まで日本には身分制度が残っていました。身分が違えば当然食べる物も変わります。
有名な話でどこまで本当かはわかりませんが、昭和25年に国会で当時大蔵大臣の池田勇人は「貧乏人は麦を食え」という主旨の発言を行ったとされています。当然大問題になりましたが、裏を返せば米は本来贅沢な食べ物であるという価値観がまだ残っていたと言えます。
また、家父長制の下では家庭内でも食べる物に差が出ます。「世帯主が一番いい物を食べる」というのは比較的最近まで常識だったのではないかと思います。
まとめると、身分、所得など様々な社会的条件により食生活は変わるということです。

(3)「伝統」っていつから? 歴史的考察
言うまでもありませんが、日本人が米を食べるようになったのは日本に米が導入された以降です。
また、時代により米の生産量や人口は変動しますので、1人当たりの米の消費量も変動します。
さらに、諸外国との交流を通じて新たな作物が導入されますので、栽培される作物は時代により変化します。当然ながら米の生産や消費も影響を受けます。例えば、ジャガイモやサツマイモはアンデス山脈周辺を起源とする作物で、低温、乾燥、やせ地などに耐える非常に強い作物です。江戸時代に日本に導入されると、飢饉対策として全国に広まりました。これらの作物は米と同じく収穫量が多くて炭水化物を主体としておりますので、主食となり得ます。
食べ物も時代とともに変化するのです。現在我々が和食だと思っている料理も、昔の人間から見ればハイカラな洋食かもしれません。

(4)「主食」って何? 栄養学的考察
「主食」という言葉には厳密な定義がありません。強いて挙げるとすれば、「消費量が特に多い」「炭水化物含量が多い」ぐらいでしょうか。食文化が多様で突出して消費量の多い食物がない場合は、主食が存在しないことになります。
世界的に見て「主食」という用語があまり用いられないということは、「主食」という概念にあまり意味がないことの証明ではないかと思います。
そもそも、「主食と呼べる食物がある」=「特定の食物に偏っている」=「偏食」とも言えますので、栄養学的にはあまりよろしいことではないと思います。

4.米の生産と消費
(1)量
上に示した資料にも出ていますが、現代の日本では米は、水田10a(1000平方m)あたり500-600kgほど穫れます。江戸時代以前は、この3分の1以下しか取れなかったとされています。この差は言うまでもなく、栽培技術の進歩(特に肥料)と品種改良によるものです。
また、技術等の進歩と農業土木工事(特に用水路の整備)により、以前には米が作れなかった土地でも米が作れるようになっています。
現在の米の生産量は年間800万-900万tほどです。昭和40年代前半には1400万tほどでした。
1人当たりの年間消費量は現在は60kg以下ですが、昭和30年代には130kgほどでした。現在の2倍以上です。「日本の主食は米だ」というのは戦後の一時期に限っては正しいと言えます。ちなみに、年間で60kgとはおおよそ1日1合に当たります。この現状では「米は日本の主食である」と断言するのは難しそうです。
近代以前にはなかなか信頼できるデータがないので、日本でどれぐらいの量の米が生産・消費されていたのかはわかりません。いわゆる「石高」も決して正確とは言えません。しかし、現在より米の生産量がはるかに少なかったのは間違いありません。
統計データがある程度手に入る明治時代以降を見る限りでも、「日本の主食が米だった」とは言い切れないと思います。

なお、日本は急激な人口増加により、明治時代末期には既に米の自給ができておらず、一部を植民地からの輸入に頼っていました。私は日本が躍起になって対外膨張主義に走り、植民地獲得を目指した理由の一つは食料確保ではないか、と思っています。特に満州中国東北部)は穀倉地帯ですので。
自給できていなかった食物を「主食」と呼ぶことは無理があると思います。

この辺のことは、東大農学部の准教授、川島博之博士『食の歴史と日本人 「もったいない」はなぜ生まれたか』(東洋経済新報社)に詳しく書いてありますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。ただし、この本はところどころいいことも書いてあるものの、タイトルからもうかがえるように、農業と国民性を強引に関連付ける傾向が強く、あまりお薦めはしません。

また、収穫された米のうち、一部は来年の稲作用の種もみとして残しておかなければなりません。米不足が起こると、農民が空腹に耐えかねて来年の種もみまで食べてしまい、次の年の田植えができなくなり米不足が続いたという悲惨なことが全国で起こりました。収穫した米の全てを食べられるわけではないのです。(※2)

(2)社会的・経済的側面
江戸時代までの日本では、米が金と同等の価値を有していました。各藩の経済力は米の生産力(石高)で表され、現代の会社員に相当する武士の給料は米で支払われました。また、農民が大名に納める税金は「年貢」と呼ばれ、米で支払うことが定められていました。
つまり、日本人の大多数を占めていた農民にとって、米は「金」だったのです。収穫した米はまず年貢として大名に納め、売却して生活費を捻出し、食べられるのは残りだけです。
また、庶民の食事はおかず(副食)に乏しく、米を含む大量の穀物を少量の塩辛い漬物や汁物とともに食べるというのが一般的です。また、庶民(特に農民)は現代の我々よりはるかに過酷な労働を日々行っておりましたので、毎食穀物を2合食べるのも当たり前だったようです。貴重な米を長持ちさせるために、米に雑穀やイモ、野菜を混ぜるのは当然のことでした。
また、これは地域や時代により大きな差がありますが、米は雑穀やイモより上等な食べ物だと見なされていたので、家長や跡取り息子に優先的に米が与えられ、女性や子供の食事は雑穀やイモが主体でした。家庭内の地位により米と他の食べ物を混ぜる比率を変えて別の釜で炊いたり、同じ釜で炊く場合でも米が多い部分と少ない部分を選り分けたりして対応していたようです。

江戸時代も半ばを過ぎると、市場経済の発達により、農民も現金収入を得なければならなくなりました。各藩も財政の悪化により、現金収入の必要性が高まりました。そのため、綿や麻、菜種油などの商品作物の生産が奨励され、米を含む食料の生産が軽視されることもあったようです。
さらに、米は食料としてだけではなく、酒造りの原料としても用いられました。ただでさえ足りない米が他の用途に消費されるわけです。米不足が起こるたびに幕府や大名は酒造りを制限しましたが、酒は貴重な現金収入となるのでなかなか徹底できなかったようです。

農村の庶民が好きなだけ米を食べられるのは、盆や正月、祭りなどの特別な時期に限られていたと言われております。米は贅沢品であり、そう簡単に食べられるものではなかったと思います。米を主食とできたのは、一部の上流階級や都市住民だけです。(※3)

(3)「米至上主義」の弊害
現代日本の「米至上主義」は決して新しいものではありません。縄文時代弥生時代に稲作が始まったのと同時に、日本人に根強く定着してしまいました。一番の理由は、米が他の食物(特に雑穀)より収穫量が多い、連作障害がないので同じ場所でいつまでも栽培できる、味が良い、栄養価(主に炭水化物)が高いといういいこと尽くめの特徴があったからです。
挙句の果てには、日本全国の農業生産力、さらには経済力を米の生産量で評価するという世界にも類を見ない変てこな制度(石高制)を導入してしまいました。
しかし、この「米至上主義」は日本に悲劇をもたらしました。上に述べたように、本来日本で米作りに適した土地は限られています。にもかかわらず、無理に日本中で米作りを始めました。その結果、昭和時代になっても東北地方は冷害による米の凶作に苦しむ羽目になったのです。(※4)
もっとも、「寒冷地でも米を作りたい」という執念が米の栽培技術の向上、品種改良の原動力となったのも事実です。

「米至上主義」は「白米至上主義」でもあります。
玄米のぬかを取り除くと白米になります。この作業を精米と呼びます。米の表面を削るわけですから、重量は減りますし栄養価も下がります。昔の人間はそれを承知の上で玄米より白米を好んだのです。理由は簡単で、味と食感と見た目です。
脚気」という病気があります。これはビタミンB1の不足により生じる栄養障害です。この病気は長期に渡り日本の都市部の国民病でした。なぜか。
ビタミンB1は米ぬかに多く含まれています。したがって、玄米を食べれば大丈夫なのです。また、他の様々な食べ物にも普通に含まれています。つまり、極端に白米に偏った食生活を送っていたことが原因です。
地方出身者が江戸に住むと脚気にかかり、地元に帰ると治ったことから脚気は「江戸患い」と呼ばれたこと、明治時代以降の日本海軍が脚気の原因を白米だと見抜いて脚気を根絶したのに対し、陸軍は白米にこだわったために脚気に苦しんだことは有名です。陸軍の兵隊は貧しい農家の二男、三男が多かったため、せめて白米を腹一杯食べさせてやりたいという配慮(むしろそれを売りにしていた)が悲劇を生みました。(※5)
「米至上主義」は副食の充実が伴わなければ危険だということです。
もっとも、最近の「米至上主義者」は「玄米至上主義者」であることも多いようです。こちらはマクロビオティックなどのトンデモ栄養学の範疇になり、私の手に余りますので、触れないこととします。

冒頭で述べたとおり、「米至上主義」は排外主義、国粋主義の色彩を帯びることがあります。米の他の食べ物に対する特別扱いが根本にあるので、差別に容易に転換します。「米は優れた主食である。米以外の主食は劣っている」から「米を主食とする日本人は優れている。米を主食としない外国人は劣っている」へとシフトする実例はネット上でも書籍でも簡単に見つかります。特に敵視される食物は小麦と肉です。

また、「米至上主義」は「稲作至上主義」でもあります。歴史学でも民俗学でも、「稲作至上主義」に疑問を呈する研究者は多いようです。稲作以外の農業、米以外の食物を軽視することで、歴史学民俗学が歪められたのではないかという懸念が伺えます。例えば、「農業の開始」=「稲作の開始」と見なされることがありますが、これは稲作以前に雑穀やイモの栽培が行われていた可能性を無視するものです。

(4)戦後
戦後、米の生産量は急激に増加しました。栽培技術の進歩、戦地や海外領土からの引揚げ者が農村に定住したことによる農業労働力の増加、GHQの農地解放による農家の意欲向上、経営形態の改善などが理由として挙げられます。海外からの輸入に頼っていた米の自給率は100%を超えました。つまり、日本人は米を十分に食べられるようになったのです。長年どころか稲作が始まって以来の悲願であった、「国民全員が米を腹一杯食べること」を初めて達成したのです。「米が主食」と呼べるのは、戦後数十年の時期に限られると思います。

本稿の最後は、日本の食文化研究の大家である国士舘大学教授の原田信男博士の書籍、「江戸の食生活(岩波現代文庫)」の「はじめに」からの引用で締めます。

ある意味で、日本は米食民族と言うよりは米食願望民族と言った方が正しく、実際に米が社会の隅々にまで行き渡り、日本人の全てが米だけの飯を食べられるようになるのは、実に1960年代以降のことである。

※1:学名とは、生物の世界共通の学問上の名前です。ラテン語の斜体で表記されます。「属名+種小名」という形です。稲は「オリザ属サティバ種」となります。同様に、人間はHomo sapiensと表されます。「ホモ属サピエンス種」です。
※2:漫画「北斗の拳」の「ミスミの爺さん」の種もみの話は有名ですね。
※3:これは私にとって小学生の時から常識でした。私の人生のバイブルとも言える漫画であるドラえもんに、「昔はよかった」という話があります。単行本では30巻です。勉強が嫌になったのび太が、現実逃避のためにタイムマシンで昔の農村に行きます。農家の居候になるのですが、食事に出された粟の粥が不味いので「なぜ米を炊かないのか」と文句を言うと、農家の主人に「祭りでもないのに贅沢を言うな」と呆れられる、という展開になります。
※4:この背景として、東北地方の諸藩が明治維新戊辰戦争)の際に幕府側に付いて薩長土肥主体の新政府と戦ったことから、東北地方が「賊軍の地」と見なされ、半ば懲罰のような形で農村開発や農業技術の改良が意図的に遅らされたからではないか、との説もあります。
※5:この「陸軍における脚気の問題」の当事者の1人が、森鴎外です。