バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

「奇跡のリンゴ」という幻想 −無農薬のジレンマ−

1.はじめに

私は農学を修めたものとして、「無農薬」という言葉に対して懐疑的です。

  • 「農産物の生産量を維持できるのか」
  • 「農産物の価格を抑えられるのか」
  • 「農家の労力が増えないか」
  • 「そもそも本当に無農薬なのか。市販の正規の農薬の代わりにお手製の変な物を使っているのではないか」
  • 「慣行農法の農産物より品質や安全性が優れているのか」
  • 「慣行農法より環境への負荷が小さいのか」

などの疑問が湧くからです。これらの疑問は一向に解消される気配がありません。それどころか年々深まる一方です。
この辺の疑問については、科学ジャーナリスト松永和紀氏の力作、「食の安全と環境−「気分のエコ」にはだまされない(日本評論社)」をご覧下さい。

上記のような疑問を踏まえた上で、断言します。
少なくとも現状では、無農薬は金持ちの道楽です。これは私個人の意見ではありません。学会やその他の場所で、複数の農家、農業技術者、農学者からこの言葉を聞いております。

また、無農薬農業は致命的な欠点・矛盾を抱えております。以下にそれを述べたいと思います。
結論から言ってしまうと、「無農薬農業は農薬に全面的に依存している」、言い換えれば、「無農薬農業が成立するのは農薬のおかげ」ということです。


2.量が取れない

無農薬農業の欠点としてまず思い付くことは、収穫量の少なさです。病気・害虫・雑草により作物の生育が阻害されるのですから当然です。
「奇跡のリンゴ」の木村秋則氏の支持者である弘前大学教授、杉山修一博士の書籍、「すごい畑のすごい土 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学(幻冬舎新書)」から引用します。別の機会に批判したいと思いますが、この書籍は非常に残念な内容です。そもそも木村氏と10年も共同研究を行っていて論文が全くないことは研究者としていかがなものか、と大いに疑問を覚えます。

最近、日本でイネの自然栽培が全国に広がり始めています。私が調査した全国に広がる52軒の自然栽培農家の平均収量は10アールあたり325キロです。
これは、普通に化学肥料と農薬を使う慣行栽培の6割程度です。

さらっと書いていますが、この「慣行栽培の6割程度」とはとんでもない数字です。私がこのブログでよく持ち出す「平成の米騒動」と比較してみましょう。出典は農水省の統計です。
この時(平成5年)の全国の米の平均収量は前年度比で約73%です。73%でもあれだけ日本中が大騒ぎになり、外国から米を大量に輸入するという緊急事態となったのです。「慣行栽培の6割程度」がいかに恐ろしい数字かご理解頂けると思います。しかも、自然栽培という特殊な農法に挑戦しようというのですから、いずれの農家も腕には覚えがあるのでしょう。それなのにこの有様です。収量が低すぎて農法として致命的にまずいとしか言いようがありません。この農法では農薬だけでなく肥料も使わないので、肥料を使わないことの悪影響も当然ありますが、無農薬農法で食料需要を満たせるとはとても思えません。農業の至上命題は、十分な食料を確保し、人々を飢えさせないことです。

また、作物の種類により病原体や害虫の種類は異なります。そのため、同じ場所で大規模に同じ種類の作物を育てていると、その作物に特有の病原体や害虫の密度が上がり、病害や虫害が増えます。それを防ぐため、無農薬農業では多種類の作物を少量ずつ栽培するのが一般的です。これも生産量の少なさにつながります。

無農薬農業では食料が確保できません。慣行農業により十分な食糧が確保できて初めて、社会の余裕の現れとして無農薬農業が成立し得るのです。無農薬農業が存在できるのは慣行農法のおかげです。


3.価格が高い

無農薬農産物は慣行農産物に比べて価格が上がります。上に述べた生産量の問題が理由の一つです。もう一つの理由は、労力・人件費です。日本の農産物の価格が国際的に見て高い理由の一つが人件費であり、人件費を抑えることは日本の農業の至上命題です。農薬が使われる理由の一つも、作業の負担を減らして人件費を抑え、農産物の価格を下げることです。
無農薬農業では病気・害虫・雑草の処理は原則として手作業になりますので、どうしても労力が増え、農産物の価格に人件費が上乗せされてしまいます。ところが、労力は無視されることが一般的です。木村氏も、農薬を使わないことで労力の負担が増えることをあまり気にしていないようです。
上に述べた「多品目少量栽培」も作業効率の悪さの原因となり、人件費がさらに増えます。
国民の大多数が無農薬農産物を購入することはできません。高所得者だけです。「無農薬は金持ちの道楽」の所以です。そして、そのような道楽が成立するのは、慣行農業による安価な農産物が十分に供給されているからこそです。


4.農薬がなければ存在意義がない

現在の日本では、「無農薬」はブランドとなっております。つまり、

無農薬はステータスだ 希少価値だ

ということです。
しかし、このブランド化はあくまで慣行農業との比較においてのみ成立し得るものです。つまり、無農薬農業は慣行農業を批判しなければ存続できないのです。木村氏を始めとする無農薬農家が農薬の害を針小棒大に言い立てるのはそのためです。
仮に農薬がなくなれば、無農薬農業は敵を失い、存在意義がなくなります。さらに全ての農家が無農薬農業を行うことになるので優位性がなくなり、無農薬農家は「無農薬」という看板を用いた商売ができなくなります。商法としての無農薬農業が存続できるのは、「農薬という敵」の存在のおかげです。


5.木村氏の歯切れの悪さ

先日述べたように、木村氏は農薬を絶対悪であるかのように述べています。実に明快です。ところが、木村氏の書籍をよく読むと、実は農薬を肯定していることに気付きます。農薬のおかげで十分な食糧が生産できて世界を養えていること、自分の農法では収量が少ないことを認めています。農薬なしでは現在の世界の人口を維持できないことを理解しているはずです。
そもそも、木村氏の最大の売りは、「農薬を使わなかったために大変な苦労を経験した」という自慢話です。農薬を使わない農業は非常に難しいことを身をもって示しています。
そのため、農薬を否定したいのか肯定したいのかよくわからなくなっています。推測するに、自分自身及び自分のリンゴの宣伝のためには、つまり商売のためには農薬を否定しなければなりませんが、世界から農薬が根絶できるとは思っていないのでしょう。ならば、「無農薬」という極端な主張を捨てて「減農薬」という看板を掲げればいいのではないかと思いますが、商売として「無農薬」を捨てるわけにはいかないのでしょう。こんなところにも無農薬農業の矛盾が見て取れます。「農薬を否定したいけれども否定し切れない」というところでしょうか。


6.おわりに

「物は言い様」とでも言うべき内容になっておりますが、「無農薬が成立するのは農薬のおかげ」という珍妙な矛盾を十分に示せたと考えております。農薬に限らず、極端なことを主張する者は自縄自縛に陥る、ということかも知れません。何事も程々が一番です。仏教の「中道」、儒教の「中庸」といった辺りでしょうか。
上に述べたように、現在の日本では「無農薬は金持ちの道楽」です。なぜこのような道楽が成立するのかといえば、日本が豊かだからです。日本が貧しければ食糧の確保もままなりませんので、無農薬などと甘いことは言っていられません。貧しい国が食糧不足に苦しむのは、農薬や肥料が手に入らず、食糧生産がうまく行かないからです。我々のなすべきことは、日本の豊かさを維持しつつ、少しでも農薬の使用量を減らすことでしょうね。