バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

「奇跡のリンゴ」という幻想 −無肥料農法は長続きしない−

引き続き、「奇跡のリンゴ」に対する批判を行います。我ながらよく飽きもせずに書き続けられるなぁ、と思いますが、一年以上温め続けたネタなので、いくらでも書けそうです。もう少し続けます。このシリーズの執筆は、私自身の農学のいい勉強になっております。


1.はじめに

奇跡のリンゴ」は、農薬を使わないことに加えて、肥料を使わないことも売り文句となっております。厳密にはマメ科作物を植えて土壌に窒素を供給していることを明言しているのですから、これを「無肥料」と表現していいのかは大いに疑問です。もっとも、法的にも学術的にも「肥料」の定義は非常に難しいので、言った者勝ちの面はありますが。
今回は、肥料を使わない農業は可能なのか、ということを考えてみたいと思います。いきなり結論を述べてしまうと、「できない」に尽きます。肥料がなくても農業ができるのならば、なぜそもそもこの世に肥料という物が存在しているのでしょうか。人類は数千年にも渡って農業を行い、膨大な試行錯誤を繰り返し、「肥料がなくては農業はできない」という厳しい事実を突き止めたわけです。


2.肥料を求めた歴史

ここで肥料の歴史などを述べたいところですが、それは私の手に余りますし、文章が膨大になり過ぎるので、肥料がいかに重要であるかを示す事柄をいくつか簡単に述べます。肥料がなければ農業ができないことは、歴史が物語っています。「肥料なしでも農業ができる」と主張することは、歴史および人類の英知から目を背けることだと言えます。大袈裟ですが。
なお、肥料として特に重要な元素は、窒素(N)、リン(P)、カリウム(K)だということを頭に入れておいて下さい。

(1)日本
日本の農民は、農業生産を維持するために様々な物を肥料として利用してきました。肥料を投入しないと土地がやせる一方で、生産量を維持できないことを経験的によく知っていたからです。

日本農業史(木村茂光編、吉川弘文館)という、日本の農業の歴史を解説した書籍によると、何と江戸時代には人間の髪の毛が肥料として使用されていたとされています。髪の毛は人体の一部ですので、タンパク質(窒素)を豊富に含んでいます。捨てるのはもったいない。しかし、燃料や家畜の飼料にもならない。だから肥料にしよう、という発想は非常に合理的です。すぐ後で述べるように、もともと日本には人糞を肥料として利用する習慣があったので、人体から出た物を肥料として利用することに抵抗がなかったのでしょう。

夏目漱石の小説、「坊ちゃん」には海釣りの場面が出て来ます。そこで釣れる魚について、次のような説明があります(出典:青空文庫)。

船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ肥料には出来るそうだ。

明治時代には小魚を肥料とすることが一般的だったことがうかがえます。魚は窒素やリンを豊富に含み、また干すことで重量が減って運びやすくなるので、肥料として重視されました。海から山まで流通システムが整備されていたほどです。「干鰯(ほしか;干したイワシ)」、「鰊粕(ニシンから油を搾った残り)」などが有名です。
お節料理には「田作り」という小さなイワシの料理が含まれます。これは、小魚を干して田んぼの土壌に鋤き込むことで、土壌が肥えて収穫量が増えたことに由来します。つまり、小魚は「田を作る」肥料だったわけですね。

日本では伝統的に、人糞を肥料として農地に投入していました。落語によくありますが、江戸時代では都市部の人糞が貴重な肥料であり、食物により人糞の成分に差があることから、身分により人糞の買い取り価格に差があったとされています。人糞を肥料とする方法は、衛生的には大いに問題がありますが、物質循環という点では完璧なシステムです。農村と都市の間で、農産物と人糞という形で物質循環が成立していました。

農民にとって、肥料は金を出してでも買う価値のある物でした。「金肥」という言葉があるほどです。それほどまでに肥料は農業を行う上で不可欠だったのです。

(2)イギリスの悪行
イギリス、イングランド中部にシェフィールドという町があります。この町は刃物の製造で有名でした。当時のヨーロッパの刃物は、鞘として動物の角や骨、象牙などを用いていました。作業の工程で、削り屑としてこれらの資材の廃棄物が大量に発生します。この削り屑を積んでできた山の周囲では、雑草の成長がいいことに気付いた者がいました。これが契機となり、骨を農地に投入すると作物の収穫量が増える、言い換えれば骨が肥料となることがわかりました。次のような逸話が残っています(出典:高橋英一、肥料の来た道帰る道、研成社、孫引き)。

イギリスは多くの国から肥沃の条件をかすめとりつつある。すでに骨を渇望してイギリスはライプチヒワーテルロー、クリミヤの戦場を掘り返した。またシチリアカタコンベからは幾世代もの骸骨を運び去った。毎年イギリスは他の国から自分の国へ、人間350万人分に相当する肥料を持ち去っている。イギリスは吸血鬼のようにヨーロッパの首っ玉にしがみつき、諸国民から血液を吸い取っている。

肥料として人間の骸骨を利用していたわけです。しかも、わざわざ外国の戦場跡を掘り返してまで手に入れる価値があったのです。イギリスは高緯度地域に位置するため、氷河期には国土が氷河に覆われていました。氷河は表土を削りながら移動するため、氷河に覆われた土地は、肥沃な表土を失ってやせてしまいます。イギリスは元々肥料の必要性が高かったのです。

(3)南米のグアノ
南米沖の太平洋は世界有数の漁場です。膨大な魚がこの海域に集まり、また魚を求めて膨大な海鳥が集まります。海鳥は陸上に糞を落とします。その糞が乾燥・堆積してできた物は、「グアノ」と呼ばれました。このグアノは肥料としてインカ帝国の農業を、輸出資源としてチリやペルーといった周辺国の経済を支えました。このグアノを巡って、アメリカとペルーの間で外交問題が起こったほどに重要な資源でした(出典:高橋英一、肥料になった鉱物の物語、研成社)。なお、無計画な採掘により現在ではこのグアノはほぼ枯渇しています。化学肥料の開発により、需要もなくなりました。

(4)ハーバー・ボッシュ法(窒素の化学肥料)
ドイツ系ユダヤ人であるフリッツ・ハーバー(1868-1934)は、空気中の窒素ガス(N2)と水素ガス(H2)から、アンモニア(NH3)を工業的に大量生産する手法を開発しました。高校の化学で習う、「ハーバー・ボッシュ法」です。
これは人類の歴史を大きく変えた発明です。窒素化学肥料を大量生産できるようになったことで食料生産量が大幅に増加し、人口が急増しました。また、火薬の大量生産も可能となったため戦争が地獄と化しました。

(5)リン鉱石
現在では、リン肥料は鉱物として採掘されます。ところが、リン鉱石化石燃料と同様に有限の資源であり、枯渇が懸念されています。そのため、リン鉱石の産出国は戦略物資として輸出制限を行っています。この事実は、リンが肥料としていかに大きな意義を有するかを如実に示しています。


3.窒素とそれ以外の元素の違い

木村氏の書籍を読むと、窒素については詳しく説明していますが、窒素以外の成分に関する説明はほとんどありません。リンについては、土壌中の微生物の活動により、リン化合物が植物に利用しやすい状態に変化しているのではないか、との推測を述べているのみです。(出典:リンゴが教えてくれたこと、日経ビジネス文庫、P203-204)
木村氏の支持者である弘前大学教授の杉山修一博士書籍(すごい畑のすごい土、幻冬舎新書)は、「肥料の代わりに土壌の微生物が畑を肥やす」というタイトルを付けた章を設けておきながら(第三章)、説明しているのは窒素だけで、他の成分は一切説明していないという「何だかなぁ」な有様です。窒素だけが肥料ではないのに。
実は、窒素に関しては自信満々に説明できるのに、他の元素の説明を避ける明白な理由があるのです。それを以下に述べます。

ここでは、農地では「収穫」という形で定期的に大量の元素が持ち出される、という大原則があることを覚えておいて下さい。木村氏の「自然栽培」では、農地の環境を野山に近付けることを目標としています。しかし、農地は「収穫」が行われるという点で、野山とは根本的に違います。収穫により失われる成分を補わねば土壌はやせる一方です。

(1)窒素
まずは、私の作成した農地の土壌における窒素の流れを示した図をご覧下さい。

窒素は空気の約80%を占めています。つまり、地球上に窒素は事実上無限にあるわけです。ところが、生物の大半は空気中の窒素(窒素ガス:N2)を利用できず、一部の微生物のみが空気中の窒素を利用できます。この作用を「窒素固定」といいます。
木村氏の農法は、この窒素固定を最大限に利用しています。「自然栽培ひとすじに(創森社)」という書籍によると、木村氏のリンゴ園の土壌中の窒素量は、慣行農法(肥料を投入している)の農園と同等のようです。
つまり、窒素に関しては、無肥料でもどうにかなる可能性があります。だからこそ、木村氏や杉山教授は窒素に関する説明を詳細に行うわけです。

また、この窒素固定とは逆に、土壌中の窒素を窒素ガスやアンモニア、亜酸化窒素(N2O)などの気体の形で大気中に戻す微生物も存在します。この作用を「脱窒」と呼びます。この脱窒を行う微生物を用いた水質浄化技術が研究の対象となっています。窒素は肥料であると同時に、水質汚染の原因ともなりますので。

なお、窒素固定を行う微生物と共生関係にあるマメ科植物(根に微生物が寄生している)を使って土壌に窒素を供給する方法は、木村氏のオリジナルではありません。古今東西、普遍的にみられます。日本ではレンゲソウ、ヨーロッパではクローバーを使うことが一般的です。春先の風物詩である水田のレンゲソウの赤い花は、土壌に窒素を供給するために植えられているわけです。昔の農民は、農学が成立するはるか以前から、レンゲソウが土壌を肥やすことを経験則で知っていたのです。農学は農民の経験則の理論化という側面もあります。

(2)その他の元素
続いて、窒素以外の元素は次の図のようになります。

窒素以外の元素は微生物による外部(大気)からの供給がないので、肥料として人為的に投入しない限り、土壌への供給量が足りません。事実上「持ち出し」の形になり、土地がやせてしまいます。
リンに限れば、植物が利用できる土壌中のリンは一部に過ぎません。微生物の作用により多少利用効率は上がりますが、外部からの十分な供給が期待できない場合は、言わば「貯金を食い潰している」状態に過ぎず、いずれ枯渇します。実際、上に述べた書籍「自然栽培ひとすじに」では、木村氏のリンゴ園の土壌は、リン量が著しく低いことが示されています。窒素量が高いのにもかかわらず。この書籍の発行は2007年1月ですから、現在はさらにリンの枯渇が進んでいるかも知れません。

まとめると、「窒素はいわゆる無肥料でも何とかなるかも知れない。しかし、他の元素では無理。長続きしない」ということです。数年間といった短い期間で考えるのならば、全く無理というわけではないかも知れません。しかし、それでは商売として、産業として成立しません。

余談ですが、水田での稲作は、いわゆる無肥料でもある程度可能です。水田には大量の水が流されるので、稲が水に含まれる肥料分を吸収できるからです。水は高所から低所に流れるので、水田地帯では一度水田に流れ込んだ水が排出され、別の水田に流れ込むことがあります。つまり、他の水田の肥料のおこぼれにあずかることもできるわけです。これを無肥料と称することが妥当かどうかはわかりませんが。


4.野山でも肥料はあるに越したことはない

農作物の成長の上で肥料が重要となることは自明ですが、野山の野生植物でも同様です。
上に引用した「肥料になった鉱物の物語」では、高緯度地域の河川におけるサケ類の遡上が周辺の森林の維持に大きな役割を果たしていることが述べられています。クマや猛禽、キツネなどの肉食獣がサケを食べて森林内で糞をする、あるいは食べ残しを放置する。それらが森林のための肥料となっているのです。野山でも森林の維持のために外部からの肥料の投入が重要となる場合があるということです。「野山の野生植物は肥料がなくても十分育つ」という考えはいささか短絡的です。

「肥料の来た道帰る道」と「肥料になった鉱物の物語」は同じ研究者の筆による少々古い書籍ですが、お勧めです。専門知識をそれほど必要とせず、読みやすくて面白い本です。


5.余談 −戦う農学者−

東京農業大学に、後藤逸男博士という教授がいます。土壌学・肥料学の権威で、様々な活動を行っています。何と、あの悪名高いEM(Effective Microorganisms)に対し、辛辣な批判を行っていることでも知られています。以前別の記事で引用しましたが、後藤教授の発言を、書籍「カルト資本主義(斉藤貴男、文春文庫、絶版)」から再度引用します。

P247-248
「EMはイカサマ、これが結論です。EMボカシで収量が増えたという農家はありますが、それはボカシにする米糠などの有機質肥料や、畑に残っていた前年までの化学肥料が効いたか、ほかの畑の肥料が地下水で回ってきたまでのこと。化学肥料をやり過ぎていた農家が突然やめると、ちょうどよくなるんです。その証拠に、年を経るにしたがって収量が減っていったというケースばかり。こういう“自然農法”を、私は“お余り農法”と呼んでいます。農薬や化学肥料まみれの近代農法が嫌だという気持ちはわかりますけど、日本の土壌は残念ながら、自然農法ができるほど肥沃じゃないんです」

P273
「EMのようなイカサマが成立してしまうこと自体、取りも直さず、現代農業に対する警鐘に他なりません。化学肥料や農薬に頼りすぎる現状の問題点は、あらゆる研究者が認識しているのですから、ああいうものに農家の方が飛びつかなくてもよい農法を確立しなければいけないと自覚しています」

これは、農学者として素晴らしい発言だと思います。
また、後藤教授は東日本大震災で被災した農地の復旧に尽力しています。具体的には、福島第一原発事故の影響により土壌中に蓄積した放射性セシウムを土壌粒子に吸着させ、作物に吸収させないための技術、津波を受けた農地における塩害の克服技術の開発に取り組んでいます。
参考:農地復興に研究者の総力を 甚大な塩害と放射能汚染(東京農業大学)

もちろん、被災地の復興に参加している農学者は後藤教授だけではありません。私の知り合いでも数え切れないほどいます。しかし、疑似科学と戦う農学者はあまりいないので、この方の名前を覚えておいて頂ければ、私としては幸いです。それに加えて、農業、農学の側にも「肥料や農薬の使い過ぎは望ましくない。できるだけ減らそう」という考えがあることも覚えておいて下さい。
参考:毎日フォーラム・あしたの日本へ:東京農業大学教授(全国土の会会長) 後藤逸男氏(毎日新聞)


6.おわりに

肥料は大昔から使われています。理由があるから使われ続けているわけです。今回は触れていませんが、農薬も同様です。学術的な(法的ではなく)農薬の定義は難しいところですが、農薬の存在は決して新しいものではありません。詳しくはこちら(農薬の歴史1:農薬ネット)をご覧下さい。
古くから使われており、科学や技術が進歩してもいまだに使われ続けている。一向になくなる様子がない。それどころか、科学的な知見がどんどん蓄積していく。肥料も農薬もそういう存在です。必然性、合理性があるからそういう存在になっているのです。常識を疑う必要があることは事実ですが、「常識がなぜ常識となったのか」ということも考える必要があると思います。長年の常識は重く、そう簡単に覆せるものではありません。重い常識を覆すには、より一層重い根拠が必要です。今のところ、「奇跡のリンゴ」は農業の常識を覆せるだけの根拠を提示できていません。