バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

ちきりん氏のお粗末な科学教育論 続その1 華麗なる自爆

1.はじめに

先日のちきりん氏に対する批判記事は大きな反響を得ました。嬉しい限りです。
同氏がまた何やらブログで珍妙なことを書いていたようなので、再度批判したいと思います。前回全く興味がないと書いておきながら、批判を続ける私はツンデレなのでしょうか。「か、勘違いしないでよね! 科学を愛する者として科学を冒涜する者を許せないだけなんだからね!」


2.気付いていないだけ

本日(3/2)にちきりん氏が更新したブログの内容は以下に抜粋する通りです。

客がスーパーのレジに求めるもの Chikirinの日記

スーパーのレジに並ぶ時、列の長さで判断すると失敗する。大事なのは、レジ打ちスタッフのスキル(素早さ)なので、そっちから判断するのが良。特に、新人+コーチ役の2名でやってる列は相当に早い。

客側の要素としてはこれが、列の進み具合に影響を与える二大要素なわけです

レジ待ち時間に影響を与える要素は下記の通りですが、

1.レジ打ちスタッフ側
 1-a スキル
 1-b 人数(ひとつのレジ担当のスタッフ数)
2.客側
 2-a 買っている商品の数
 2-b 支払いの素早さ
 2-c 領収書請求やクレームなど、突発事項の可能性

私は、
・1が2より重要、
・2-aより2-b のほうが重要
と考えています。

これはどう考えても数学ですよね。「スーパーのレジにおける待ち時間」という「数値」に影響する様々な「条件」と、それらの条件の「影響の大きさ」を「定量的に評価」しているわけですから。情報学、社会学の分野ではこれをそのものズバリの「待ち行列理論」と呼ぶようです。単純化した形ならば、中学受験の算数で習う「ニュートン算」に含まれますね。

ちきりん氏は先日のブログで以下のように述べています。

「あたしに理科とか数学とか教えるの、ほんとーに時間の無駄!」ってことでもあります。

算数に関しても、中学校1年までに学んだことで十分で、中学校の後半以降、算数&数学の授業を受けてなくても、これまでの人生において、たぶん何の問題もありませんでした。

高校レベル以上の数学(関数)の概念を披露しておきながら、「数学は自分の人生において何の役にも立っていない」と豪語するのは酷い矛盾、自爆です。自分の考えていることが数学の範疇に含まれるということが理解できないのでしょうね。科学とは何か、数学とは何かを全く理解していない者が、「科学や数学は役に立たないから教えなくていい」などと放言しているわけです。全く理解していないからこそそういう発言ができるわけでしょうけれども。理解できないもの、関心がないものを正当に評価できるはずがありません。

先日の記事の日付が2/25で今回の記事が3/2ですから、1週間も経っていません。それなのにこれ程までに矛盾した文章を書けるというのは驚きです。自己啓発屋、売文屋としての戦略や戦術というものを考えていないのでしょうか。
「自分は数学を学ぶ必要はなかった」「科学や数学は役に立たない」などと豪語しておきながら、自分自身は数学を使っていること、日常生活の意外なところに数学が関係していることを明言しているわけですからね。


3.科学や数学はいつでもどこでも存在する

「科学」や「数学」の定義や概念をどのように設けるかによって、日常生活での有用性は全く変わります。はっきり言ってしまえば、誰の日常生活にも科学や数学は関係します。いわゆる「生活の知恵」は合理的な根拠があるものも多いわけですから。例えば、「水垢は酢やクエン酸を使えばよく落ちる」という知識は、「水垢の主成分は水道水に含まれるカルシウムやマグネシウムなどのアルカリ性金属に由来する化合物の結晶だから、酢やクエン酸水のような酸性の液体によく溶ける」という立派な科学的背景を有しています。「科学や数学は役に立たない」と述べる人は、科学や数学を狭い意味、勝手な意味で捉えているに過ぎません。科学や数学の存在に気付いていないだけ、目を逸らしているだけです。

ちきりん氏は先日の記事で、『学校教育で「生活するために必要な科学知識」を教えるべきだ』との旨を述べていましたが、それはあくまで「日常生活には科学があふれている」ということを認識させるため、科学に関心を抱かせるための契機に過ぎないわけです。導入、入り口であって目的ではありません。


4.おわりに

小中学生の皆さんは、「科学や数学は役に立たないから勉強しなくてもいい」などとしたり顔で語る大人の言うことを信じてはいけないことがよくわかりましたね。そういう人に限って科学や数学を駆使して仕事をしていたりするのです。興味がなくても、成績が悪くても少しは科学や数学を勉強しましょう。いずれ気付かないうちに役に立つかも知れませんよ。

ちきりん氏のお粗末な科学教育論

1.はじめに

私はちきりん氏という人物に全く興味がありません。せいぜい、「安っぽい人生訓を勿体ぶって切り売りしているだけの三文自己啓発」という程度の理解しかしていません。
そのちきりん氏がブログで科学教育について何やら語っていました。
下から7割の人のための理科&算数教育(Chikirinの日記)
これを読んで大いに呆れたので、批判してみたいと思います。

2.子供の可能性を狭めるな

ちきりん氏は自身の経験に基づき以下のように理科教育を語っています。

あたしに理科とか数学とか教えるの、ほんとーに時間の無駄!

義務教育である、小学校、中学校、それに事実上の義務教育である高校をあわせた 12年間の理科教育のうち、私に必要だったのは小学校レベルの理科だけであって、中学・高校で、化学、物理、生物、地学などを学ぶ必要は全くなかったと思います。

算数に関しても、中学校1年までに学んだことで十分で、中学校の後半以降、算数&数学の授業を受けてなくても、これまでの人生において、たぶん何の問題もありませんでした。

今、教えられている内容を前提とすれば、数学や理科に関しては、全体の 3割程度の生徒が学べばよい(ちきりんを含め、下から 7割の人は学ぶ必要がない)と思ってます。

「技術立国のために科学教育が大事」とかいうけど、あたしにいくら科学教育を与えても、技術立国には一歩たりとも近づきません。

興味も能力もない人に、理科や算数を 12年間も教え続ける必要はありません。

清々しいまでの視野狭窄ですね。ちきりん氏は現在の人生において、中学校以降に教わった数学や理科が全く役に立っていないと固く信じているようですが、これは成人後に過去を振り返っているからこそ言えることです。後付けに過ぎません。子供の将来など誰にもわかりません。いつどこで何が役に立つかわからないからこそ、子供の内から色々なことを学校で学ぶ必要があるのです。義務教育の間は取りあえず一通り何でもやってみてから向き不向きを判断すべきかと思います。
子供は常に変化し続ける生き物です。大きく変化(成長)するからこそ子供なのです。今科学に興味がないからと言って、一生科学に興味がないままだと断定することはできません。子供の適性など誰にもわかりません。「どうせ理解できないから理科教育は必要最低限でいい」などと称して子供の可能性を狭めることはあってはならないことです。人生の選択肢を減らしてはいけません。さらに、向上心や努力の否定にもつながりかねません。

子供だけでなく大人だって成長できます。
余談ですが、私の母方の祖父は耄碌してもインテリ気取りでした。80歳を超えても雑誌に寄稿したりしていました。私はそんな祖父を尊敬しています。
また、私は仕事で農学者との付き合いが多いのですが、老大家の知的好奇心の強さにはいつも驚かされます。
人間は何歳になろうとも学び、成長できます。「自分の人生で科学は役に立たなかった」などと豪語してしまうのはいかがなものでしょうかね。今からでも科学を学んでみればどうなのよ。
タイトルに「下から7割の人のための」という表現を用いているあたり、ちきりん氏は「分相応」「身の程を知る」ということを言いたいのかも知れませんが、結局は単なる食わず嫌いのような気がします。自身も努力して数学や理科に取り組んでいれば違う人生があったかも知れないのに。

3.科学は知識の寄せ集めではなく考えることである

ちきりん氏は理科教育の具体的な内容について提案があるようです。

今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)「生活するために必要な科学知識」を教えてほしいです。

「生活するために必要な科学知識」の例として挙げられている項目を抜粋してみると、

・リボ払いを選んだ場合の利子の額
・大半の人が選んでしまう住宅ローンの“元利均等払い”の恐ろしさ
・命にかかわる病気になった時、治療方法をどう選べばよいのか
・妊娠のメカニズムと、不妊治療やその限界など
・トイレ掃除のとき、何と何の洗剤を一緒に使うと危ないのか
放射能が怖いんだけど、ラジウム温泉でダイエットするのは大丈夫?

さらに、次のような余計なひと言も付記しています。

みたいなことを(カエルの解剖をする代わりに)教えてほしい。

などを(リトマス紙で遊ぶ時間の代わりに)教えてください。

借金額の計算をするには高校レベルの数学理論を理解している必要があります。
例えば糖尿病の治療法を考えるには、すい臓を中心としたホルモンによる血糖値の制御機構を理解する必要があります。そのためには、高校レベルの生物を履修するのがよさそうです。その切っ掛けとして「カエルの解剖」は良さそうですね。自分の目で内臓を見ることは大事です。
妊娠のメカニズムを理解するには、高校の生物の発生を学ぶべきです。さらに恒常性についても学ぶと理解が深まることでしょう。
塩素系洗剤と酸性洗剤を混ぜたら塩素ガスが発生して危険だということを理解するには、高校レベルの化学を習得している必要があります。その際には「リトマス紙で遊ぶ」という経験は大きな意味を持ちます。
放射能の問題を理解するには高校レベルの化学・物理学を習得している必要があります。

ちきりん氏の言う「生活するために必要な科学知識」とは一体どのようなものなのでしょうか。「理屈を教えずに結論の知識だけ教えろ」ということでしょうか。それを世間では「付け焼刃」「張りぼて」「見せ掛け」と言います。「生活するために必要な科学知識」を習得する上での一番の近道は普通に理科を勉強することだと思います。

さらに怪しい物言いは続きます。

科学的な思考とは何か、ということはしっかりと教えた方がいいと思います。

技術そのものというより、技術や科学について、学んでおきたかったと思えることはたくさんあるんです。

換言すれば、「全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」だってことです。

台形の面積の計算方法なんて、「台形 面積 計算方法」でググればすぐに見つかるんです。“全員が”なぜそういう計算方法になるのか、までを理解する必要があるとは思えません。

簡単な方程式は、表計算ソフトで収支管理プログラムを作ったり、税金を計算したりするプロセスの一環として、教えてもらえれば十分です。

「科学」や「科学的思考法」は様々な定義が考えられると思いますが、「なぜ」「どのように」を考えることが候補として挙げられると思います。
台形の面積の計算方法を理解していない、理解しようとしない人間が「収支管理プログラムを作ったり、税金を計算したりする」ことなどできるのでしょうか。私は学生時代にSAS(Statistical Analysis System)という統計ソフトをほんの少しだけ使ったことがあります。その際には、自分でプログラムを書いてコンピュータに計算させる必要がありました。「なぜ」「どのように」を考えないと、プログラムなど全く書けはしません。
「台形の面積の計算方法を教えること」は「数学的思考法を育てること」の一環だと理解できないのでしょうか。数学的思考法は、例え数学とは無縁の人生を送っていても何かと必要になる能力ですがね。

思考過程を重視しない教育により培われる「科学的な思考」や「科学リテラシー」とは一体どのような能力なのでしょうか。

「インターネットで検索すればすぐわかるから学校で教える必要はない」とは、あまりに浅薄な言い草です。この理屈に従うと、学校で教えるべきことは何もありません。現在のインターネットでは、あらゆる分野の専門家が高度な知識を提供してくれていますので。もし「Wikipediaがあるから勉強する必要はない」と言われたらちきりん氏はどう反論するのでしょうか。

4.おわりに

おそらくちきりん氏にとって科学とは、「何だかよくわからないし自分には関係ないけど便利そうな道具」に過ぎないのでしょう。「科学的な思考」とか「科学リテラシー」と言いつつ、その具体的な内容にほとんど触れない辺りにそれが如実に表れています。そもそもこんな記事を書いている時点で、ちきりん氏本人に「科学的な思考」や「科学リテラシー」がないことは明らかです。

繰り返しになりますが、科学の基本は考えることです。考える訓練を受けずに上っ面の知識だけを身に付けることはいささか危険です。なぜならば、子供の内に科学的な思考法を身に付けていないと、知識が正しいのかどうか自分で判断することができないからです。中学高校時代に理科を勉強しないまま大人になり、トンデモ本を読んで疑似科学に傾倒してしまった厄介な方々の多いこと多いこと。
ちきりん氏の言うように理科教育の内容を大幅に削減して実学志向を強めれば、日本は今以上に疑似科学天国になるでしょうね。理論軽視と実学志向は疑似科学の大きな特徴ですから。
上に述べたように、「生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」を身に付ける最も効率のいい方法は、普通に中学高校で理科を学ぶことです。ちきりん氏の科学教育に対する見解は全く中身がありません。

科学を愛する者、科学に生涯を捧げた者が古今東西多数いることを知らないわけでもなかろうに、科学に対する冒涜と取られかねないような表現を用いるのは、売文屋、自己啓発屋として作戦ミスだと思います。いわゆる「炎上商法」「釣り」のつもりなのかも知れませんが。

難産という人間の宿命 −自然出産に隠れたマゾヒズムと優生思想−

1.はじめに

「自然出産」と呼ばれる出産方法が良くも悪くも話題になっております。自然出産の定義は難しく、様々な方が様々な意味で用いています。敢えて私が定義するとすれば、曖昧な表現ではありますが、「医療を排除した出産」となりましょうか。よくある反近代、反科学、反医療、反理性の一環だと思います。
この自然出産の教祖、親玉とでもいうべき産科医で、吉村医院院長の吉村正氏が引退したと報道されています。自然出産や吉村医師の主張の問題点は、医療関係者を中心に多数指摘されています。

努力すれば安産できるのでしょうか?(新聞記事にツッコミ)(宋美玄オフィシャルブログ)
死は悪いことではない!?「自然出産」に違和感(宋美玄のママライフ実況中継)
「真実のお産」で本当の女に!?私はごめんです(宋美玄のママライフ実況中継)
「自然分娩」と努力至上主義(The Huffington Post Japan)
出産の「痛み」を和らげる手段が回避されてしまう理由(BLOGOS)
吉村医院の哲学(NATROMの日記)
何故、日本の助産師には“自然分娩至上主義”が多いのか(助産院は安全?)

さて、今回は、上記のような批判とは少し視点を変えて、吉村医師並びに自然出産に対する批判を行いたいと思います。背景となる視点は、「人間は出産を苦手とする動物である」という生物学的事実です。

2.人間はなぜ難産となるのか

人間は霊長類(サル)の一種です。人間に近縁の霊長類は類人猿と呼ばれます。人間と類人猿の体の構造の上での違いは多々ありますが、特に大きいのが「直立二足歩行への適応」と「頭部の大型化」です。これが人間に難産という宿命をもたらしました。簡単に説明すると、

  • 直立二足歩行に対応するため、腰部周辺の骨格・筋肉の構造が特殊化した。それに伴い、産道が狭く、曲がりくねっている。
  • 脳の大型化により頭部が大型化した。そのため、胎児の頭部が産道より大きくなった。

ということです。もっとも、人間と言えども動物ですから、進化の過程でこの難産への対策も多少は身に付けております。

  • 女性の骨盤の構造が特殊化して産道を広げている(類人猿では骨盤の雌雄差は小さい)。
  • 出産の際に母親の腰周辺の骨格や筋肉の構造が変化して産道を広げる。出産後元に戻る。
  • 胎児の頭部が大きくなり過ぎると産道を通過できないので、未熟児の段階で出産する。
  • 胎児の頭蓋骨の結合が不完全で、産道を通過する際に頭部が変形する。

しかし、これらの対策は十分ではない上に危険を伴います。未熟児のまま出産するということは、言い換えれば新生児が非常に脆弱になるということです。出産後の死亡率も上がります。類人猿の新生児は生まれてすぐに母親にしがみ付けますが、人間では無理です。
母体に大きな変化が生じるということは、やはり言い換えれば妊娠・出産の際に母体に多大な負担がかかるということです。類人猿では母親は簡単に出産して、出産後はすぐに元の生活に戻ります。介助も介護も全く不要です。やはり人間には無理です。

人間は直立二足歩行及び高い知能の代償として、難産に苦しむ宿命を負っているのです。母子の生命を守るために医療が出産に介入することは当然のことです。

3.マゾヒズム −やっててよかった苦悶式?−

上に述べたように、人間は難産から逃れることはできません。古今東西、出産は危険を伴う行為でした。だからこそ神社仏閣で安産祈願を行うわけです。医療の発達により出産の危険性が低下したことを疑う余地はありません。医療を否定する自然出産という行為は、積極的に出産の危険性を高める行為だと言えます。
私は日本人はマゾヒストの集団だと思っています。国際的に見て、諸外国と比較してどうかということまではわかりません。苦行・難行の果てに真理に到達できるという宗教は珍しくはないでしょうし。
日本人は苦痛に耐えなければ成長できないと思い込んでいるようです。さらに言うと、苦痛を味わうことが社会的に認められるための通過儀礼となっているような気がします。私の考える日本の悪しき慣習の具体例は以下の通りです。他にもいくらでもあると思いますが。

  • 子供の内に体罰に耐えることで強い大人になれる
  • スポーツの練習中に水を飲んではいけない
  • うさぎ跳びはスポーツ科学的に効果がないのにやらせる
  • 若い内はブラック企業で働くのもいい
  • ブラック企業の過酷な新人研修
  • 若い時の苦労は買ってでもしろ
  • 徴兵制を復活させて若者を自衛隊で鍛えるべきだ
  • 新入部員・新入社員は歓迎会で一気飲みをしろ

等々。日本人は無駄な苦痛が大好きのようです。

ただでさえ出産には危険が伴うわけですから、医療のバックアップは不可欠です。わざわざ命綱である医療を自らの意志で排除するのは、自ら危険な状況に陥ることを楽しむ屈折したマゾヒズムだと思います。
上に挙げた『出産の「痛み」を和らげる手段が回避されてしまう理由』という記事にあるように、国により違いがあるとはいえ先進国では麻酔を用いた無痛分娩が一般的です。ところが日本では普及していません。日本には「産みの苦しみ」という面倒な言葉があるように、「苦痛を伴わない出産は出産と呼ぶに値しない」という拭い難い固定観念があるのでしょう。まとめると、

出産が女性として、母親として認められるための苦行・難行になってしまっている。

と言えるのではないかと考えます。

4.優生思想 −弱者は死ね−

自然出産に潜む優生思想の例として、上に挙げた吉村医師の著書、『「幸せなお産」が日本を変える(講談社+α新書)』から引用します。
私は今までの人生でそれなりの数の本を読んでいますが、これほど読んでいて腹が立った本は記憶にありません。金を払って不快な気分を味わいたいマゾヒストの方は是非読んで下さい。標準医療やEBMを何の根拠もなく完全に否定しているので、医療関係者の方々は私以上に腹が立つでしょうね。

「逆子でも自然に産みたい」「お腹を斬りたくない」「最後まで自然に産みたい」というからには「死を覚悟せよ!」(P66)

「死ぬものは死ぬんだ」(P68)

あるとき、私の講演で、こんな質問をした人がいました。
「先生はいまの産科学を否定されますが、医学が進歩し、お産を支えるようになったからこそ、周産期死亡率が下がったのではありませんか」
たしかに、昔は1000人のうち40人の赤ちゃんが生まれるときに亡くなりました。今は1000人のうち7人くらいしか死にません。それは医学の進歩のおかげではないか、とその人は言うのです。どこかのお医者さんか、大学の先生だったような気がします。私は思わず、『バカを言え!』と言ってしまいました。40人死ぬはずが、7人に減ったとしても、そのことは幸せか?自然に生まれれば死んでいた命を、医学の力で無理やり生かし、いっぱい管につないだり、あちこち切ったりして、延命させたところで、はたしてそのことで人類の幸せが増したことになるのか?」(P97-98)

40人死んでいたときのほうが、よほど子供はうまく育っていました。医学が人の命にどんどん干渉し、人間は長生きできるようになりましたが、だからといって前より幸せになれたとは言い切れません。(P98)

死ぬべき命を助けるのが、無条件にいいことだと考えるのは医学の傲慢です。死ぬ者は死に、生きる者は生きる。(P98)

生まれるものは生まれてきたし、胎児に何か異常があれば、流産や早産して死んでいました。生きるものは生きる。異常があって死ぬものは死ぬ。それでいいではありませんか。(P102)

産科学というのは医学的な異常をなくして、赤ちゃんも母親も死なないようにすることが究極の目的です。要するに命が助かればいい。(P103)

科学が進歩し、医学が発達したから、お産や病気で死ぬ赤ちゃんが減り、人間の寿命ものびているではないかと。でも死亡率が減ったことと、幸せになることはイコールではありません。(P111)

死ぬものは死ぬ、生きるものは生きる。死ぬものを助けてどうするのだ(P179)

それでも早産するものはしてしまう。もともと胎児に何か異常があって、育たない命だったからです。(P179)

異常があるから死ぬのであって、死ぬべきものが死に、生きるべきものが生きるから、強い生命が生き延びる。それが生き物の原則です。(P180)

いまの産科学では、死ぬものを無理やり、むちゃくちゃな努力で生かしている。(P180)

死ぬものが死んで、なぜ悪い。(P180)

お産で自然に死ぬとしたら、それは死ぬべくして死ぬ命だったからではないでしょうか。(P180)

助からないものは、そういう命だった。それだけのことです。(P181)

死ぬものを無理やり機械と薬の力で生かす。(P181)

死を覚悟しなければ、いいお産はできない。(P184)

いかがでしょうか。これらの主張をまとめると、

医療の助けを借りないと無事に生まれてくることもできないような弱い人間は生きる価値がないから死んでしまえ。

となりましょうか。
こうして引用文を入力していても、実に腹が立ちます。私も立派なマゾヒストですね。とにかく一冊全てが優生思想、マッチョ主義、反科学、反医療、反近代、反理性、反論理、排外主義、国粋主義歴史修正主義、性差別に満ち満ちています。読んでいて実に疲れました。ただし、薄い新書(P200強)でなおかつ中身がないので、すぐに読み終わりましたが。

この本では出産がいかに神聖な行為であるかを繰り返し強調しています。それは私も否定しません。人間をこの世に送り出す出産という崇高な行為は、何物にも代えられません。しかし、出産の神聖視と医療の導入は矛盾するものではありません。医療を導入しつつ、妊婦と胎児の尊厳を守ることもできるはずです。
少しでも出産の安全性を高めるために医療を導入するのは当然のことです。医療のおかげで無事に生まれてきて、健康に幸福に生きている方々だっていくらでもいるわけです。医師が「弱者は死ね」などと放言することは悪質な優生思想です。医師ならば弱者も含めた万人を平等に扱うべきです。
なお、吉村医師は、自分の医院では出産が行えない危険な状況だと判断した場合は、妊婦を他の病院に転送することを常習的に行っています。上に挙げた、『「真実のお産」で本当の女に!?私はごめんです』に示されています。要するに、いざとなったら他の病院に丸投げすればいいと考えているわけですね。ご高説は立派でも、いささか口先だけのようです。ただでさえ周産期医療の現場は疲弊しているわけですから、予定外かつ危険性の高い緊急出産を押し付けることはやめて欲しいものです。

参考:吉村医院から他の病院に丸投げされたウルトラマンの娘

5.おわりに

自然出産に成功し、幸せな家庭を築いている妊婦がいることは否定しません。リスクを承知の上で自然出産を選ぶ権利は保障されてしかるべきです。もっとも、自然出産の結果得られるものが、出産の危険性を増やすことと釣り合うとはとても思えませんが。それでも結局は個人の自由を止めることはできません。妊婦の方々には冷静な判断を期待します。医療な過剰な介入を抑えることは大いに結構ですが、医療を排除するのは極端過ぎます。
どこでどのように産もうと出産は尊い行為ですから、わざわざ過酷な方法を選ぶ必要はあまりないと思います。そもそも「個人の自由」と言ったところで、出産の主役である赤ちゃんには選ぶ権利が与えられていないわけですからね。母親の自由とエゴの境界はどこにあるのでしょうか。母親が重視すべき点は安全性以外には何もありません。

6.全くどうでもいい余談 −鳥山明と人類学・霊長類学−

酷い医師に対する批判記事だけでは心が荒むので、関係のない話を少しだけ。
今回の記事を書くに当たって、下記のような人類学・霊長類学の書籍を参考としました。そこで思った他愛のないことを書きます。

(1)ドラゴンボールと人類学
漫画家の鳥山明氏の代表作であるドラゴンボールで、主人公の孫悟空がヒロインのブルマの胸を見て、「女は胸にも尻があるのか」と勘違いするシーンがあります。実はこれは、人類学的に正解のようです。あくまで仮説に過ぎませんが。
霊長類の雌にとって、尻は雄に対する性的アピールを行う部分です。ニホンザルの尻は赤く色付きますし、チンパンジーボノボの尻は腫れ上がります。ところが、人間は直立二足歩行を行うようになったので、尻が目立たなくなりました。代わりに、胸が発達して乳房が大型化し尻に似ることで、性的アピールを行えるようになったと考えられています。女性の胸には尻があるという悟空の勘違いは正しかったのです。

(2)ドラゴンクエストと霊長類学
鳥山氏がキャラクターデザインを行っているドラゴンクエストシリーズで、「暴れ猿」「キラーエイプ」「コング」という大猿のモンスターが登場します(デザインは全て共通で色違い)。これらのモンスターの前脚をよく見ると、指の腹(掌)ではなく背を地面に付けています。
オランウータン以外の類人猿(ゴリラ・チンパンジーボノボ)はそのような歩き方をします。これをナックルウォーキングと言います。これらのモンスターはゴリラを参考にしてデザインされているようですので、霊長類学的に正確であると言えます。屁理屈をこねると、「エイプ」とは「尾のない類人猿」を指しますので、尾の長い猿をエイプと呼ぶのは無理がありますが。
鳥山氏がこれらの作品やデザインにどのような意図を込めたのかはわかりません。ただし、鳥山氏は卓越した画力で有名です。絵が上手い方は細かいところまでよく見ていて発想が豊かだと言えましょう。


人類学や霊長類学を趣味でかじると色々と面白いのでお勧めです。初心者向けの書籍も多数刊行されています。今回の記事のように、トンデモに対する予防策にもなります。

「かびんのつま」という残念な漫画

1.はじめに

小学館の漫画雑誌、「ビッグコミック スペリオール」で、「かびんのつま」という化学物質過敏症を取り上げた漫画が連載されています。作者はあきやまひできという方です。あきやま氏が化学物質過敏症患者である妻を支える姿がノンフィクションとして描かれています。先日コンビニで何気なく雑誌を立ち読みしたら、この漫画が目に留まりました。この漫画自体は以前より知っていましたが、興味がなかったので読んだことはありませんでした。雑誌を買って初めて読んでみて、内容のダメさに驚いたので記事にします。連載を1回読んだだけで問題点がすぐにわかりました。


2.ダメな点

(1)科学的に疑問
実際の漫画は、1ページ目から突っ込みどころ満載の内容でした。

合成ゴムのスリッパを履くと、スリッパに含まれている化学物質が体内に侵入し、呼吸が苦しくなる。底が畳になっているスリッパを履くと平気だ。

「皮膚から微量の毒物が侵入して健康に悪影響を及ぼす」という概念は「経皮毒」と呼ばれますが、これには科学的な根拠が全くありません。足の皮膚から毒物が瞬時に吸収され、血管を経由して瞬時に脳に達し、瞬時に呼吸が阻害される、というのはあまりに考えにくいことです。

屋内にいると呼吸が苦しいので屋外に出ると、空気が黄土色に見える。

この部分の説明が不明瞭で、「外の空気が悪くなっているのではなく、過敏症がさらに悪化しているからだ」と述べられています。何だか意味がよくわかりません。空気が黄土色に見えるほど汚染されているのならば、とっくに地域で問題になり、対策が取られているはずです。実際の光景ではなく、単なる心象風景・想像と言うべきでしょう。ただし、「妻は微量の化学物質が目に見える」という描写が一貫しています。そのため、作者が本気でそう信じているのか、あるいは恐怖の象徴としての化学物質を視覚化しただけなのか。前者なのではないかという気がします。

合成ゴムでできている運動靴を履けない。
衣類のプラスチックのボタンや合成ゴムに素手で触れない。

「皮膚から体内に侵入する毒物が不快感の原因となる」と言いたいのでしょうが、極端過ぎますね。根拠がありません。

電気製品の電源コードを抜くと電磁波過敏症の症状が楽になる。

あきやま氏が電気製品の電源コードをコンセントから抜くと、妻の電磁波過敏症の症状が消えると説明されています。しかし、妻はあきやま氏がコードを抜くところを見ているわけですから、思い込みに起因する心因性の症状の可能性があります。電磁波が原因だということを証明するには、あきやま氏が妻に知らせずにコードを抜き差しして、症状がどう変化するかを調べる必要があります。医学で言うところの二重盲検法のような形です。厳密には二重ではありませんが。

全体的に、科学的な根拠もなしに体調不良の原因を化学物質だと断定する描写が目に付きます。もう少し客観的な根拠を提示して欲しいところです。これでは説得力がありません。

(2)漫画として面白くない
はっきり言ってしまうと、この作品は化学物質過敏症云々以前に面白くない漫画です。あくまで私の感覚ですが。あきやま氏の力量不足でしょう。経歴を調べてみても、ヒット作と呼べるほどの作品はありません。さらにはWikipediaにも個人の独立した項目がまだ作られていません。本人はこの作品を通じて世間の化学物質過敏症への理解を深めたいようですが、おそらく無理だと思います。単純に漫画として面白くない以上、広く読まれることはなく、話題にもならないまま終わってしまうことでしょう。一度読売新聞に取り上げられたようですが、注目が高まったということもないようです。
物凄く関係者一同に対して失礼な物言いになることを承知で言いますと、「スペリオール」は漫画雑誌としてメジャーではありません。印刷部数も少ないのが現状です。さらに、掲載順位はかなり後ろの方です。全体で380ページほどの雑誌で、301ページ目です。つまり、この作品はただの不人気漫画です。その現状を受け止めるべきでしょう。しかもあろうことか、表紙にタイトルと著者名が記載されていません。編集部にも期待されていないのではないかと勘繰りたくなりますね。

以下に、この作品の漫画としてまずいところを具体的に列挙します。

1)登場人物の表情が乏しい
妻は体調不良に苦しんでいるわけですが、画力が低いため表情の描写ができておらず、あまり苦しそうに見えません。苦しんでいるはずなのに薄笑いを浮かべているように見える場面もあります。さらに、夫婦とも常に口をポカーンと開けているので、緊張感のない顔、嫌な言い方をすれば間抜け面に見えます。あきやま氏は眼鏡を掛けていますが、目は描かれていません。本来、漫画で「眼鏡を掛けた人物の目を描かない」という演出は、表情・感情を隠し、不可解な人物、珍妙な人物であることを強調するための手法だと思います。このせいで、あきやま氏が妻を心配しているようには見えなくなってしまっています。植田まさし氏の漫画作品、「フリテンくん」や「かりあげクン」では眼鏡を掛けて目が描かれない人物は変わり者と位置付けられていますよね。

2)状況を全て台詞で説明する・台詞が不自然
この作品は化学物質過敏症の解説を目的としているので、説明すべき内容が多くなります。あきやま氏はその説明を全て台詞で行っています。そのせいで、台詞が冗長かつ説明口調になってしまっています。夫婦の会話としてはあまりに不自然です。行動や演出、ナレーションで説明できないものでしょうか。

3)演出が弱い
この作品の目的は、上に述べたように化学物質過敏症の患者の苦しみを訴えることです。となれば、多少大袈裟になっても(もちろん不正確にならない程度で)患者の苦しみ、化学物質の恐ろしさを強調すべきです。そうしなければ読者の注意を引けず、作品の意義はありません。ところが、前述のように妻の表情が乏しい上に動きも乏しいので、妻の苦しみを表現できていません。

作者としては妻の苦しみを客観的に淡々と描いているつもりなのかも知れませんが、実際にはただの面白くない作品に過ぎません。それどころか、あまりに科学的に問題のある描写が多いため、逆に化学物質過敏症という病気への理解を妨げる可能性があると思います。


3.ではどうすればいいか

現状では、この漫画が話題になり世間の化学物質過敏症への理解が深まる、そんな日は来ないと思います。いつまで連載が続くのかは知りませんが、注目されないまま終わってしまうことでしょう。ということで、勝手に改善策を考えてみました。

(1)医師・科学者の監修者を付け、科学的・医学的に問題のある描写をなくす。
(2)あきやま氏は原作のみを担当し、作画力・演出力のある漫画家に作画を担当させる。

あたりでしょうか。何だか物凄く失礼なことを言っている気がしますが。金を払って雑誌を買った以上私は読者であり、批判する権利ぐらいはありますよね。単行本が出たら買います。買ったらまた批判すると思いますが。

漫画雑誌という娯楽メディアを使って世間に広く主張を投げ掛けている以上、漫画作品として面白くなければ存在意義がありません。実際のところ、今回で不定期掲載の20回目であり、掲載開始から1年近く経っているのにほとんど話題になっていません。連載中の作品だというのに、twitterで「かびんのつま」で検索してもヒット数が少ない上に、トンデモぶりが注目されている有様です。連載は打ち切られずに完結するのでしょうか。単行本は刊行されるのでしょうか。刊行されても初版の部数は流通するのに十分でしょうか。先行きは暗いような気がします。
原因が不明でも妻の苦しみは事実なのでしょうから、あきやま氏が漫画家として腕を上げて面白い作品、読者が引き込まれる作品を描いてくれることを期待します。しかし、陰謀論、被害妄想に走っている気配があるので残念ながら難しいでしょうね。

人工知能学会誌の表紙について

人工知能学会誌の表紙が大幅に変更され、女性型のロボットが本を読みながら掃除をしている姿が描かれています。これが女性差別だということで話題になっております。
学会誌名の変更と新しい表紙デザインのお知らせ(人工知能学会)

次の号は表紙の絵を「背中にケーブルがつながったレレレのおじさん」にすればいいと思います。故赤塚不二夫氏が率いていたフジオ・プロも協力してくれるのではないでしょうか。

ドキッ! 男だらけの江戸しぐさ! (鼻)ポロリもあるよ!

江戸しぐさ」なるヨタ話が時々話題になります。検証するまでもない下らない話だと思いますが、江戸時代をパラダイスだと信じるおめでたい(物事の自分の思い込みに都合のいい部分しか見ない)方々は少なからずいるようなので、各地で定着してしまっているようです。嘆かわしい限りです。
時計が存在しないので時間の概念があまりなく、また電話や電報などの通信手段がない時代に待ち合わせや訪問に関するマナーがはたして成立するのか。人間関係を円滑におさめるマナーがあったのならば、なぜ当の江戸っ子が「火事と喧嘩は江戸の華」などと自嘲したのか。あまりに突っ込み所が多すぎますね。
参考
「傘かしげ」「時泥棒」…今に生きる思いやり 「江戸しぐさ」道徳教材に(2006年4月7日 読売新聞東京本社)
NPO法人江戸しぐさ

さて、前回の記事で現代文明を批判する方々に対する疑問を提示しましたが、今回は江戸しぐさの背後に存在する江戸時代パラダイス論に対する疑問を述べたいと思います。
主題は「梅毒」です。それに続いて、江戸がいかに恐ろしい都市であったかを述べたいと思います。


1.江戸は梅毒地獄だった

江戸は梅毒が蔓延していたようです。(独)国立長寿医療研究センター研究所長の鈴木隆雄氏は、「骨から見た日本人(講談社学術文庫)」の中で、「江戸時代の人骨から梅毒の痕跡が見つかる割合」と「梅毒患者が骨にまで病状が進行する割合」を基に、江戸の成人の梅毒が感染していた割合を推計しています。その結果は恐ろしい数値です。

江戸時代の梅毒患者の頻度を推計すると、54.5%という値を得ることができる。この値は、単純にみれば、江戸時代の江戸市中に住む成人人口の約半数がなんらかの形で梅毒に罹患していたということを示唆している。(P234、強調は引用者)

鈴木氏はこの推測は非常に大まかなものに過ぎないことを強調していますが、恐ろしいとしか言いようのない結果です。
梅毒が進行すると「鼻が落ちる」とよく言います。それが今回の記事のタイトルの由来です。


2.なぜ江戸は梅毒地獄になったのか

梅毒の起源はおそらく北米であろうと言われております。また、日本に梅毒が持ち込まれた契機は南蛮貿易だとされています。この病気は瞬時に日本全国に広がったわけですが、なぜ江戸で猖獗を極めたのかを述べます。結論から言うと、「江戸が男が極端に多い都市だったから」です。
概略を図示すると、次のようになります。また、江戸の人口の男女構成比も合わせて図示します。

風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが、「火事が起これば江戸っ子の鼻が落ちる」わけです。
これらの図だけで十分かもしれませんが、補足説明を行います。

(1)新興巨大都市
徳川家康豊臣秀吉の命により、1590年に江戸に領主として着任しました。それまでの江戸はただの田舎でした。1603年に家康が幕府を開いたことで江戸が日本の中心となり、巨大都市へと急成長を遂げました。正確な統計はありませんが、わずか100年ほどの間に100万人を超える人口を有する世界最大クラスの都市となったわけです。そのため、都市建設が急激に進められ、膨大な建設労働力の需要がありました。

(2)火災都市
上で述べたように、江戸では火災が多発していました。この理由として、関東地方特有の冬の乾燥した北風と、密集した木造家屋が挙げられます。常に都市の復興のための建設労働力の需要があったと言えます。
江戸っ子の心意気として「宵越しの金は持たない」というやせ我慢がありますが、これは火災により度々家財を失うことからも来ているのかも知れません。そもそも貯蓄が難しく、倹約の意味があまりなかったわけですね。蓄えたところでいつ燃えてなくなるかわからないわけですから。

(3)男性労働
図には示しませんでしたが、現代で言うところの大手企業、当時の言葉で「大店」は従業員に男性しか雇わないところが多かったということも影響していたようです。いわゆる丁稚奉公ですね。

(4)売買春と梅毒
上に紹介した鈴木氏は、同書の中で娼婦の梅毒の感染率は70-80%にも達していたとする資料を提示しています。娼婦は大抵借金を抱えていますので、梅毒に罹患したからといって売春をやめるわけにはいきません。治療法もありません。かくして梅毒が売買春を原因として蔓延したのです。治療法がないので、江戸市民は梅毒については諦めの境地にあったようです。

(5)男社会の副産物
江戸は単身男性の多い都市でした。そのため、外食産業が発達し、豊かな食文化が花開きました。具体的には、蕎麦、天ぷら、寿司、鰻などですね。詳しくは国士舘大学の原田信夫教授によるカラー資料、日本ビジュアル生活史 江戸の料理と食生活をご覧下さい。この本はお薦めです。もっとも、この本に出て来るような豊かな食生活を送れたのは一部の富裕層だけですが。
また、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことが話題になっていますが、この資料を見ると「伝統的な和食」の欠点がよくわかります。物凄く塩分が多そうな食事ばかりなのです。どうでもいい話ですが。
また、和食を称賛する方々は動物性タンパク質を忌避する傾向がありますが、江戸の上流層は意外に魚介類、鳥類、卵などの動物性食品を食べていたことがうかがえます。


3.他の理由でも江戸はやっぱり地獄だった

梅毒以外にも江戸という都市は非常に恐ろしいところでした。何しろ、周囲の農村からの移入者がいなければ人口を維持できないほどでした。その理由を図表と合わせて以下に述べます。

(1)町人の居住環境の悲惨さ
大阪(当時は「大坂」)が町人の都市であったのに対し、江戸は武士の都市でした。そのため武士の居住地は優先的に開発されましたが、町人の居住地の開発は常に後回しにされました。ゆえに、町人居住地はとんでもない人口密集地帯となっていました。東京都が公表している平成25年度の東京23区内の人口密度は最大でもkm2あたりで2万人強ですから、恐ろしい数字です。さらに、現在の東京は高層化が進み、土地を立体的に利用できますが、当時の町人の一般的な住居である長屋は大多数が1階建てです。その過密ぶりは現在の我々の想像を超えます。
長屋の間取りは「九尺二間」、あるいは「九尺三間」が多かったようですが、一尺=約30cm、一間=約1.8mですから、「九尺二間」=「約2.7m×約3.6m=約10m2」です。10m2に一家が住むというのは、はっきり言いましてスラムですね。江戸の町は至る所にスラムがあったと言えます。
スラムですから結核天然痘コレラや腸チフスなどの伝染病が蔓延するのは当然です。江戸の町の死亡率は周囲の農村より高かったとされています。

(2)食生活の貧しさ
上に述べたように江戸は豊かな食文化が花開いたわけですが、それは一部の富裕層だけです。大半の町人は極端な白米偏重の食生活を送っていました。そのせいで、脚気を始めとする栄養障害に悩んでいました。また、食生活の貧しさは病気への抵抗力の弱さに直結します。上に述べた居住環境の悪さとも相まって、江戸市民の死亡率の高さは際立っていました。

(3)人口の再生産ができない
この記事の中で繰り返し述べているように、江戸は男性が多く、女性が少ない都市でした。これでは子供が生まれません。男同士で子供を設けることができるのはどこかの美少年キラーだけです。美しさは罪です。
早い話が、江戸は死亡率が高いのに出生率が低い、つまり放っておいたら人口が減少してしまうという酷い状況だったわけです。人口を維持するには周囲の農村からの移入者が不可欠だった。言い換えれば周囲の人口を収奪しなければ存続できない吸血鬼のような存在だったと言えます。

以下に、歴史人口学の権威である上智大学の鬼頭宏教授の文章を引用します。出典は「図説 人口で見る日本史(PHP)」です。

前工業化社会の都市は、農村からの人口流入によって地域人口の集積を進めたが、人工再生産力は弱かった。現在、都市圏の出生率は農村地域よりも低いが、江戸時代も同様だった。奉公人は結婚することはできなかったし、世帯の6割以上が借家層で生活が不安定な低賃金の都市労働者は、結婚しても晩婚であり、出生数も少なかった。
都市は「蟻地獄」として機能していた。前近代の都市は、どの国でも農村より死亡率が高かったから、人口を吸い寄せておいては、人を食い殺してしまう。人口密度が高く、消毒した上水道はもちろん存在しなかった。疫病に対する予防知識も、治療技術、医薬も十分ではない。インフルエンザ、赤痢などの病気が都市には蔓延した。(P96)

金を出して食料を購入する都市居住者にとって、飢饉は農民以上に、深刻であった。米があっても買えないこともたびたびあった。人々は栄養不足になり、抵抗力が低下する。伝染病ではないが、「江戸患い」「大坂腫れ」と呼ばれた脚気や劣悪な住宅事情や生活環境からくる乳児死亡もまた、都市住民の死亡率を高めていた。したがって大都市は住人にとって健康的なところではなく、死亡率が高かったのである。
ヨーロッパで言われるように、「都市は墓場」であった。都市の人口を維持し、その機能を維持しようとするならば、常に農村から人口を受け入れなければならなかったのである。(P97)

4.おわりに

歴史に学ぶのは大いに結構です。「温故知新」という言葉もあります。しかし、歴史の都合のいい部分のみをつまみ食いするのはよろしくありません。
江戸が様々な優れた特徴を有する都市であったことは私も大いに認めます。だからといって、この記事で述べたような江戸の悪い面から目をそらすのはいかがなものでしょうか。挙句の果てに「江戸しぐさ」などという文化を捏造してまで江戸を賛美するのは愚行の極みです。それは歴史を学び現代に活かすための前向きな行為、つまり上に述べた「温故知新」ではなくただの「懐古主義」であり、「歴史修正主義」です。「江戸に学べ」と言いたいのならば、「江戸しぐさ」のようなインチキではなく、素性の明らかな文化を紹介すればいいだけです。


5.参考文献

鬼頭宏「人口から読む日本の歴史(講談社学術文庫)」
鬼頭宏「日本の歴史19 文明としての江戸システム(講談社学術文庫)」
内藤昌「江戸と江戸城(講談社学術文庫)」
酒井シヅ「病が語る日本史(講談社学術文庫)」
鈴木隆雄「骨から見た日本人 古病理学が語る歴史(講談社学術文庫)」
鬼頭宏[図説]人口で見る日本史(PHP)
古泉弘編「事典 江戸の暮らしの考古学(吉川弘文館)」


6.どうでもいいこと

反論をあらかじめ予想しておきます。
江戸しぐさが事実ではなくても他人に配慮することは重要だ」
「歴史の悪い部分ばかり強調するのは自虐史観だ」
ぐらいでしょうか。