バッタもん日記

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ドキッ! 男だらけの江戸しぐさ! (鼻)ポロリもあるよ!

江戸しぐさ」なるヨタ話が時々話題になります。検証するまでもない下らない話だと思いますが、江戸時代をパラダイスだと信じるおめでたい(物事の自分の思い込みに都合のいい部分しか見ない)方々は少なからずいるようなので、各地で定着してしまっているようです。嘆かわしい限りです。
時計が存在しないので時間の概念があまりなく、また電話や電報などの通信手段がない時代に待ち合わせや訪問に関するマナーがはたして成立するのか。人間関係を円滑におさめるマナーがあったのならば、なぜ当の江戸っ子が「火事と喧嘩は江戸の華」などと自嘲したのか。あまりに突っ込み所が多すぎますね。
参考
「傘かしげ」「時泥棒」…今に生きる思いやり 「江戸しぐさ」道徳教材に(2006年4月7日 読売新聞東京本社)
NPO法人江戸しぐさ

さて、前回の記事で現代文明を批判する方々に対する疑問を提示しましたが、今回は江戸しぐさの背後に存在する江戸時代パラダイス論に対する疑問を述べたいと思います。
主題は「梅毒」です。それに続いて、江戸がいかに恐ろしい都市であったかを述べたいと思います。


1.江戸は梅毒地獄だった

江戸は梅毒が蔓延していたようです。(独)国立長寿医療研究センター研究所長の鈴木隆雄氏は、「骨から見た日本人(講談社学術文庫)」の中で、「江戸時代の人骨から梅毒の痕跡が見つかる割合」と「梅毒患者が骨にまで病状が進行する割合」を基に、江戸の成人の梅毒が感染していた割合を推計しています。その結果は恐ろしい数値です。

江戸時代の梅毒患者の頻度を推計すると、54.5%という値を得ることができる。この値は、単純にみれば、江戸時代の江戸市中に住む成人人口の約半数がなんらかの形で梅毒に罹患していたということを示唆している。(P234、強調は引用者)

鈴木氏はこの推測は非常に大まかなものに過ぎないことを強調していますが、恐ろしいとしか言いようのない結果です。
梅毒が進行すると「鼻が落ちる」とよく言います。それが今回の記事のタイトルの由来です。


2.なぜ江戸は梅毒地獄になったのか

梅毒の起源はおそらく北米であろうと言われております。また、日本に梅毒が持ち込まれた契機は南蛮貿易だとされています。この病気は瞬時に日本全国に広がったわけですが、なぜ江戸で猖獗を極めたのかを述べます。結論から言うと、「江戸が男が極端に多い都市だったから」です。
概略を図示すると、次のようになります。また、江戸の人口の男女構成比も合わせて図示します。

風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが、「火事が起これば江戸っ子の鼻が落ちる」わけです。
これらの図だけで十分かもしれませんが、補足説明を行います。

(1)新興巨大都市
徳川家康豊臣秀吉の命により、1590年に江戸に領主として着任しました。それまでの江戸はただの田舎でした。1603年に家康が幕府を開いたことで江戸が日本の中心となり、巨大都市へと急成長を遂げました。正確な統計はありませんが、わずか100年ほどの間に100万人を超える人口を有する世界最大クラスの都市となったわけです。そのため、都市建設が急激に進められ、膨大な建設労働力の需要がありました。

(2)火災都市
上で述べたように、江戸では火災が多発していました。この理由として、関東地方特有の冬の乾燥した北風と、密集した木造家屋が挙げられます。常に都市の復興のための建設労働力の需要があったと言えます。
江戸っ子の心意気として「宵越しの金は持たない」というやせ我慢がありますが、これは火災により度々家財を失うことからも来ているのかも知れません。そもそも貯蓄が難しく、倹約の意味があまりなかったわけですね。蓄えたところでいつ燃えてなくなるかわからないわけですから。

(3)男性労働
図には示しませんでしたが、現代で言うところの大手企業、当時の言葉で「大店」は従業員に男性しか雇わないところが多かったということも影響していたようです。いわゆる丁稚奉公ですね。

(4)売買春と梅毒
上に紹介した鈴木氏は、同書の中で娼婦の梅毒の感染率は70-80%にも達していたとする資料を提示しています。娼婦は大抵借金を抱えていますので、梅毒に罹患したからといって売春をやめるわけにはいきません。治療法もありません。かくして梅毒が売買春を原因として蔓延したのです。治療法がないので、江戸市民は梅毒については諦めの境地にあったようです。

(5)男社会の副産物
江戸は単身男性の多い都市でした。そのため、外食産業が発達し、豊かな食文化が花開きました。具体的には、蕎麦、天ぷら、寿司、鰻などですね。詳しくは国士舘大学の原田信夫教授によるカラー資料、日本ビジュアル生活史 江戸の料理と食生活をご覧下さい。この本はお薦めです。もっとも、この本に出て来るような豊かな食生活を送れたのは一部の富裕層だけですが。
また、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことが話題になっていますが、この資料を見ると「伝統的な和食」の欠点がよくわかります。物凄く塩分が多そうな食事ばかりなのです。どうでもいい話ですが。
また、和食を称賛する方々は動物性タンパク質を忌避する傾向がありますが、江戸の上流層は意外に魚介類、鳥類、卵などの動物性食品を食べていたことがうかがえます。


3.他の理由でも江戸はやっぱり地獄だった

梅毒以外にも江戸という都市は非常に恐ろしいところでした。何しろ、周囲の農村からの移入者がいなければ人口を維持できないほどでした。その理由を図表と合わせて以下に述べます。

(1)町人の居住環境の悲惨さ
大阪(当時は「大坂」)が町人の都市であったのに対し、江戸は武士の都市でした。そのため武士の居住地は優先的に開発されましたが、町人の居住地の開発は常に後回しにされました。ゆえに、町人居住地はとんでもない人口密集地帯となっていました。東京都が公表している平成25年度の東京23区内の人口密度は最大でもkm2あたりで2万人強ですから、恐ろしい数字です。さらに、現在の東京は高層化が進み、土地を立体的に利用できますが、当時の町人の一般的な住居である長屋は大多数が1階建てです。その過密ぶりは現在の我々の想像を超えます。
長屋の間取りは「九尺二間」、あるいは「九尺三間」が多かったようですが、一尺=約30cm、一間=約1.8mですから、「九尺二間」=「約2.7m×約3.6m=約10m2」です。10m2に一家が住むというのは、はっきり言いましてスラムですね。江戸の町は至る所にスラムがあったと言えます。
スラムですから結核天然痘コレラや腸チフスなどの伝染病が蔓延するのは当然です。江戸の町の死亡率は周囲の農村より高かったとされています。

(2)食生活の貧しさ
上に述べたように江戸は豊かな食文化が花開いたわけですが、それは一部の富裕層だけです。大半の町人は極端な白米偏重の食生活を送っていました。そのせいで、脚気を始めとする栄養障害に悩んでいました。また、食生活の貧しさは病気への抵抗力の弱さに直結します。上に述べた居住環境の悪さとも相まって、江戸市民の死亡率の高さは際立っていました。

(3)人口の再生産ができない
この記事の中で繰り返し述べているように、江戸は男性が多く、女性が少ない都市でした。これでは子供が生まれません。男同士で子供を設けることができるのはどこかの美少年キラーだけです。美しさは罪です。
早い話が、江戸は死亡率が高いのに出生率が低い、つまり放っておいたら人口が減少してしまうという酷い状況だったわけです。人口を維持するには周囲の農村からの移入者が不可欠だった。言い換えれば周囲の人口を収奪しなければ存続できない吸血鬼のような存在だったと言えます。

以下に、歴史人口学の権威である上智大学の鬼頭宏教授の文章を引用します。出典は「図説 人口で見る日本史(PHP)」です。

前工業化社会の都市は、農村からの人口流入によって地域人口の集積を進めたが、人工再生産力は弱かった。現在、都市圏の出生率は農村地域よりも低いが、江戸時代も同様だった。奉公人は結婚することはできなかったし、世帯の6割以上が借家層で生活が不安定な低賃金の都市労働者は、結婚しても晩婚であり、出生数も少なかった。
都市は「蟻地獄」として機能していた。前近代の都市は、どの国でも農村より死亡率が高かったから、人口を吸い寄せておいては、人を食い殺してしまう。人口密度が高く、消毒した上水道はもちろん存在しなかった。疫病に対する予防知識も、治療技術、医薬も十分ではない。インフルエンザ、赤痢などの病気が都市には蔓延した。(P96)

金を出して食料を購入する都市居住者にとって、飢饉は農民以上に、深刻であった。米があっても買えないこともたびたびあった。人々は栄養不足になり、抵抗力が低下する。伝染病ではないが、「江戸患い」「大坂腫れ」と呼ばれた脚気や劣悪な住宅事情や生活環境からくる乳児死亡もまた、都市住民の死亡率を高めていた。したがって大都市は住人にとって健康的なところではなく、死亡率が高かったのである。
ヨーロッパで言われるように、「都市は墓場」であった。都市の人口を維持し、その機能を維持しようとするならば、常に農村から人口を受け入れなければならなかったのである。(P97)

4.おわりに

歴史に学ぶのは大いに結構です。「温故知新」という言葉もあります。しかし、歴史の都合のいい部分のみをつまみ食いするのはよろしくありません。
江戸が様々な優れた特徴を有する都市であったことは私も大いに認めます。だからといって、この記事で述べたような江戸の悪い面から目をそらすのはいかがなものでしょうか。挙句の果てに「江戸しぐさ」などという文化を捏造してまで江戸を賛美するのは愚行の極みです。それは歴史を学び現代に活かすための前向きな行為、つまり上に述べた「温故知新」ではなくただの「懐古主義」であり、「歴史修正主義」です。「江戸に学べ」と言いたいのならば、「江戸しぐさ」のようなインチキではなく、素性の明らかな文化を紹介すればいいだけです。


5.参考文献

鬼頭宏「人口から読む日本の歴史(講談社学術文庫)」
鬼頭宏「日本の歴史19 文明としての江戸システム(講談社学術文庫)」
内藤昌「江戸と江戸城(講談社学術文庫)」
酒井シヅ「病が語る日本史(講談社学術文庫)」
鈴木隆雄「骨から見た日本人 古病理学が語る歴史(講談社学術文庫)」
鬼頭宏[図説]人口で見る日本史(PHP)
古泉弘編「事典 江戸の暮らしの考古学(吉川弘文館)」


6.どうでもいいこと

反論をあらかじめ予想しておきます。
江戸しぐさが事実ではなくても他人に配慮することは重要だ」
「歴史の悪い部分ばかり強調するのは自虐史観だ」
ぐらいでしょうか。