1.はじめに
「自然出産」と呼ばれる出産方法が良くも悪くも話題になっております。自然出産の定義は難しく、様々な方が様々な意味で用いています。敢えて私が定義するとすれば、曖昧な表現ではありますが、「医療を排除した出産」となりましょうか。よくある反近代、反科学、反医療、反理性の一環だと思います。
この自然出産の教祖、親玉とでもいうべき産科医で、吉村医院院長の吉村正氏が引退したと報道されています。自然出産や吉村医師の主張の問題点は、医療関係者を中心に多数指摘されています。
努力すれば安産できるのでしょうか?(新聞記事にツッコミ)(宋美玄オフィシャルブログ)
死は悪いことではない!?「自然出産」に違和感(宋美玄のママライフ実況中継)
「真実のお産」で本当の女に!?私はごめんです(宋美玄のママライフ実況中継)
「自然分娩」と努力至上主義(The Huffington Post Japan)
出産の「痛み」を和らげる手段が回避されてしまう理由(BLOGOS)
吉村医院の哲学(NATROMの日記)
何故、日本の助産師には“自然分娩至上主義”が多いのか(助産院は安全?)
さて、今回は、上記のような批判とは少し視点を変えて、吉村医師並びに自然出産に対する批判を行いたいと思います。背景となる視点は、「人間は出産を苦手とする動物である」という生物学的事実です。
2.人間はなぜ難産となるのか
人間は霊長類(サル)の一種です。人間に近縁の霊長類は類人猿と呼ばれます。人間と類人猿の体の構造の上での違いは多々ありますが、特に大きいのが「直立二足歩行への適応」と「頭部の大型化」です。これが人間に難産という宿命をもたらしました。簡単に説明すると、
- 直立二足歩行に対応するため、腰部周辺の骨格・筋肉の構造が特殊化した。それに伴い、産道が狭く、曲がりくねっている。
- 脳の大型化により頭部が大型化した。そのため、胎児の頭部が産道より大きくなった。
ということです。もっとも、人間と言えども動物ですから、進化の過程でこの難産への対策も多少は身に付けております。
- 女性の骨盤の構造が特殊化して産道を広げている(類人猿では骨盤の雌雄差は小さい)。
- 出産の際に母親の腰周辺の骨格や筋肉の構造が変化して産道を広げる。出産後元に戻る。
- 胎児の頭部が大きくなり過ぎると産道を通過できないので、未熟児の段階で出産する。
- 胎児の頭蓋骨の結合が不完全で、産道を通過する際に頭部が変形する。
しかし、これらの対策は十分ではない上に危険を伴います。未熟児のまま出産するということは、言い換えれば新生児が非常に脆弱になるということです。出産後の死亡率も上がります。類人猿の新生児は生まれてすぐに母親にしがみ付けますが、人間では無理です。
母体に大きな変化が生じるということは、やはり言い換えれば妊娠・出産の際に母体に多大な負担がかかるということです。類人猿では母親は簡単に出産して、出産後はすぐに元の生活に戻ります。介助も介護も全く不要です。やはり人間には無理です。
人間は直立二足歩行及び高い知能の代償として、難産に苦しむ宿命を負っているのです。母子の生命を守るために医療が出産に介入することは当然のことです。
3.マゾヒズム −やっててよかった苦悶式?−
上に述べたように、人間は難産から逃れることはできません。古今東西、出産は危険を伴う行為でした。だからこそ神社仏閣で安産祈願を行うわけです。医療の発達により出産の危険性が低下したことを疑う余地はありません。医療を否定する自然出産という行為は、積極的に出産の危険性を高める行為だと言えます。
私は日本人はマゾヒストの集団だと思っています。国際的に見て、諸外国と比較してどうかということまではわかりません。苦行・難行の果てに真理に到達できるという宗教は珍しくはないでしょうし。
日本人は苦痛に耐えなければ成長できないと思い込んでいるようです。さらに言うと、苦痛を味わうことが社会的に認められるための通過儀礼となっているような気がします。私の考える日本の悪しき慣習の具体例は以下の通りです。他にもいくらでもあると思いますが。
- 子供の内に体罰に耐えることで強い大人になれる
- スポーツの練習中に水を飲んではいけない
- うさぎ跳びはスポーツ科学的に効果がないのにやらせる
- 若い内はブラック企業で働くのもいい
- ブラック企業の過酷な新人研修
- 若い時の苦労は買ってでもしろ
- 徴兵制を復活させて若者を自衛隊で鍛えるべきだ
- 新入部員・新入社員は歓迎会で一気飲みをしろ
等々。日本人は無駄な苦痛が大好きのようです。
ただでさえ出産には危険が伴うわけですから、医療のバックアップは不可欠です。わざわざ命綱である医療を自らの意志で排除するのは、自ら危険な状況に陥ることを楽しむ屈折したマゾヒズムだと思います。
上に挙げた『出産の「痛み」を和らげる手段が回避されてしまう理由』という記事にあるように、国により違いがあるとはいえ先進国では麻酔を用いた無痛分娩が一般的です。ところが日本では普及していません。日本には「産みの苦しみ」という面倒な言葉があるように、「苦痛を伴わない出産は出産と呼ぶに値しない」という拭い難い固定観念があるのでしょう。まとめると、
出産が女性として、母親として認められるための苦行・難行になってしまっている。
と言えるのではないかと考えます。
4.優生思想 −弱者は死ね−
自然出産に潜む優生思想の例として、上に挙げた吉村医師の著書、『「幸せなお産」が日本を変える(講談社+α新書)』から引用します。
私は今までの人生でそれなりの数の本を読んでいますが、これほど読んでいて腹が立った本は記憶にありません。金を払って不快な気分を味わいたいマゾヒストの方は是非読んで下さい。標準医療やEBMを何の根拠もなく完全に否定しているので、医療関係者の方々は私以上に腹が立つでしょうね。
「逆子でも自然に産みたい」「お腹を斬りたくない」「最後まで自然に産みたい」というからには「死を覚悟せよ!」(P66)
「死ぬものは死ぬんだ」(P68)
あるとき、私の講演で、こんな質問をした人がいました。
「先生はいまの産科学を否定されますが、医学が進歩し、お産を支えるようになったからこそ、周産期死亡率が下がったのではありませんか」
たしかに、昔は1000人のうち40人の赤ちゃんが生まれるときに亡くなりました。今は1000人のうち7人くらいしか死にません。それは医学の進歩のおかげではないか、とその人は言うのです。どこかのお医者さんか、大学の先生だったような気がします。私は思わず、『バカを言え!』と言ってしまいました。40人死ぬはずが、7人に減ったとしても、そのことは幸せか?自然に生まれれば死んでいた命を、医学の力で無理やり生かし、いっぱい管につないだり、あちこち切ったりして、延命させたところで、はたしてそのことで人類の幸せが増したことになるのか?」(P97-98)40人死んでいたときのほうが、よほど子供はうまく育っていました。医学が人の命にどんどん干渉し、人間は長生きできるようになりましたが、だからといって前より幸せになれたとは言い切れません。(P98)
死ぬべき命を助けるのが、無条件にいいことだと考えるのは医学の傲慢です。死ぬ者は死に、生きる者は生きる。(P98)
生まれるものは生まれてきたし、胎児に何か異常があれば、流産や早産して死んでいました。生きるものは生きる。異常があって死ぬものは死ぬ。それでいいではありませんか。(P102)
産科学というのは医学的な異常をなくして、赤ちゃんも母親も死なないようにすることが究極の目的です。要するに命が助かればいい。(P103)
科学が進歩し、医学が発達したから、お産や病気で死ぬ赤ちゃんが減り、人間の寿命ものびているではないかと。でも死亡率が減ったことと、幸せになることはイコールではありません。(P111)
死ぬものは死ぬ、生きるものは生きる。死ぬものを助けてどうするのだ(P179)
それでも早産するものはしてしまう。もともと胎児に何か異常があって、育たない命だったからです。(P179)
異常があるから死ぬのであって、死ぬべきものが死に、生きるべきものが生きるから、強い生命が生き延びる。それが生き物の原則です。(P180)
いまの産科学では、死ぬものを無理やり、むちゃくちゃな努力で生かしている。(P180)
死ぬものが死んで、なぜ悪い。(P180)
お産で自然に死ぬとしたら、それは死ぬべくして死ぬ命だったからではないでしょうか。(P180)
助からないものは、そういう命だった。それだけのことです。(P181)
死ぬものを無理やり機械と薬の力で生かす。(P181)
死を覚悟しなければ、いいお産はできない。(P184)
いかがでしょうか。これらの主張をまとめると、
医療の助けを借りないと無事に生まれてくることもできないような弱い人間は生きる価値がないから死んでしまえ。
となりましょうか。
こうして引用文を入力していても、実に腹が立ちます。私も立派なマゾヒストですね。とにかく一冊全てが優生思想、マッチョ主義、反科学、反医療、反近代、反理性、反論理、排外主義、国粋主義、歴史修正主義、性差別に満ち満ちています。読んでいて実に疲れました。ただし、薄い新書(P200強)でなおかつ中身がないので、すぐに読み終わりましたが。
この本では出産がいかに神聖な行為であるかを繰り返し強調しています。それは私も否定しません。人間をこの世に送り出す出産という崇高な行為は、何物にも代えられません。しかし、出産の神聖視と医療の導入は矛盾するものではありません。医療を導入しつつ、妊婦と胎児の尊厳を守ることもできるはずです。
少しでも出産の安全性を高めるために医療を導入するのは当然のことです。医療のおかげで無事に生まれてきて、健康に幸福に生きている方々だっていくらでもいるわけです。医師が「弱者は死ね」などと放言することは悪質な優生思想です。医師ならば弱者も含めた万人を平等に扱うべきです。
なお、吉村医師は、自分の医院では出産が行えない危険な状況だと判断した場合は、妊婦を他の病院に転送することを常習的に行っています。上に挙げた、『「真実のお産」で本当の女に!?私はごめんです』に示されています。要するに、いざとなったら他の病院に丸投げすればいいと考えているわけですね。ご高説は立派でも、いささか口先だけのようです。ただでさえ周産期医療の現場は疲弊しているわけですから、予定外かつ危険性の高い緊急出産を押し付けることはやめて欲しいものです。
5.おわりに
自然出産に成功し、幸せな家庭を築いている妊婦がいることは否定しません。リスクを承知の上で自然出産を選ぶ権利は保障されてしかるべきです。もっとも、自然出産の結果得られるものが、出産の危険性を増やすことと釣り合うとはとても思えませんが。それでも結局は個人の自由を止めることはできません。妊婦の方々には冷静な判断を期待します。医療な過剰な介入を抑えることは大いに結構ですが、医療を排除するのは極端過ぎます。
どこでどのように産もうと出産は尊い行為ですから、わざわざ過酷な方法を選ぶ必要はあまりないと思います。そもそも「個人の自由」と言ったところで、出産の主役である赤ちゃんには選ぶ権利が与えられていないわけですからね。母親の自由とエゴの境界はどこにあるのでしょうか。母親が重視すべき点は安全性以外には何もありません。
6.全くどうでもいい余談 −鳥山明と人類学・霊長類学−
酷い医師に対する批判記事だけでは心が荒むので、関係のない話を少しだけ。
今回の記事を書くに当たって、下記のような人類学・霊長類学の書籍を参考としました。そこで思った他愛のないことを書きます。
(1)ドラゴンボールと人類学
漫画家の鳥山明氏の代表作であるドラゴンボールで、主人公の孫悟空がヒロインのブルマの胸を見て、「女は胸にも尻があるのか」と勘違いするシーンがあります。実はこれは、人類学的に正解のようです。あくまで仮説に過ぎませんが。
霊長類の雌にとって、尻は雄に対する性的アピールを行う部分です。ニホンザルの尻は赤く色付きますし、チンパンジーやボノボの尻は腫れ上がります。ところが、人間は直立二足歩行を行うようになったので、尻が目立たなくなりました。代わりに、胸が発達して乳房が大型化し尻に似ることで、性的アピールを行えるようになったと考えられています。女性の胸には尻があるという悟空の勘違いは正しかったのです。
(2)ドラゴンクエストと霊長類学
鳥山氏がキャラクターデザインを行っているドラゴンクエストシリーズで、「暴れ猿」「キラーエイプ」「コング」という大猿のモンスターが登場します(デザインは全て共通で色違い)。これらのモンスターの前脚をよく見ると、指の腹(掌)ではなく背を地面に付けています。
オランウータン以外の類人猿(ゴリラ・チンパンジー・ボノボ)はそのような歩き方をします。これをナックルウォーキングと言います。これらのモンスターはゴリラを参考にしてデザインされているようですので、霊長類学的に正確であると言えます。屁理屈をこねると、「エイプ」とは「尾のない類人猿」を指しますので、尾の長い猿をエイプと呼ぶのは無理がありますが。
鳥山氏がこれらの作品やデザインにどのような意図を込めたのかはわかりません。ただし、鳥山氏は卓越した画力で有名です。絵が上手い方は細かいところまでよく見ていて発想が豊かだと言えましょう。
人類学や霊長類学を趣味でかじると色々と面白いのでお勧めです。初心者向けの書籍も多数刊行されています。今回の記事のように、トンデモに対する予防策にもなります。
7.参考文献
奈良貴史 「ヒトはなぜ難産なのか お産からみる人類進化」 岩波科学ライブラリー
京都大学令調理研究所 「新しい霊長類学 人を深く知るための100問100答」 講談社ブルーバックス
溝口優司 「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」 ソフトバンク新書
富田守 「学んでみると自然人類学は面白い」 ベレ出版
真家和生 「自然人類学入門 ヒトらしさの原点」 技報堂出版
NHKスペシャル取材班 「ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか」 角川書店
杉山幸丸 「ヒトとサルの違いがわかる本 知力から体力、感情力、社会力まで全部比較しました」 オーム社
河合信和 「人類進化99の謎」 文春新書