バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

疑似科学と道徳 −下村文部「疑似科学」大臣の醜態より邪推する疑似科学信者の思考の傾向−(続)

先日の記事はなかなかの反響を得ました。ありがたいことに、批判も頂きました。
私は他人の批判をするのは大好きですが、他人に批判されるのも大好きです。批判されるということは、何らかの反響があるということですから。また、批判されない限り、人間は成長しません。言い換えると、成長しない人間は批判を受け入れません。独善は成長の敵ですね。主な批判をまとめてみます。

(1)道徳は個人の主観的な善悪の価値観、願望ではない
(2)道徳を振りかざす人間が道徳的とは限らない
(3)「主観的な道徳」と「客観的な科学」という対比は安易だ
(4)疑似科学を批判するのも道徳に基づく行為である

といったところでしょうか。これらの点を考えてみます。

(1)道徳は個人の善悪の価値観、願望ではない
確かに「道徳は社会に広く共有される客観的な規範である」と考えることはできます。さりとて、「道徳は個人のものではない」と断言することには違和感を覚えます。また、道徳と善悪の価値観は違うとも言い切れないと思います。よって、「個人の主観的な善悪の願望」としての「道徳」は存在すると考えます。
道徳に関する本を何冊か読んでみましたが、「道徳」を明瞭簡潔に定義することは無理だという結論に至りました。科学と同じですね。論じる人間の数だけ定義があります。
何だか歯切れが悪くてもやもやしますが、批判は正しいものの私の主張、言葉の使い方が間違っているとも考えにくいので、この点は保留します。私の手には負えません。いささか無責任ですが、さらなる批判を期待します。
折衷案としては、「疑似科学信者(の一部)は個人の善悪の願望を満たすために(善良であろうとするために)、公共の道徳と疑似科学を悪用している」という表現に落ち着くのではないでしょうか。

(2)道徳を振りかざす人間が道徳的とは限らない
これは私の説明不足による誤解です。「道徳を振りかざす」ことと「道徳的である」ことは全く違います
愛国心」をお題目のように唱える人間が国の不利益になるようなことを主張することがあります。
例1:月刊WiLL
例2:Voice
同様に、科学を連呼していながら科学的にデタラメなことばかり言う科学者もいます。
「道徳を振りかざす」人間が不道徳になることも当然あり得ます

(3)「主観的な道徳」と「客観的な科学」という対比は安易だ
確かに安易だと自分でも思いますが、あまりに細かく分類すると論が進みませんし、分類そのものが大きく間違っているとも思えませんので、この批判については深く考えないことにします。
絶海の無人島で1人で生きているのでもない限り、「個人の道徳」は「社会の道徳」と妥協せざるを得ません。「個人の道徳」がどこまで主観的と言えるかは難しいと思います。しかし、いい加減なことは承知の上で、「個人の道徳は主観的である」と断言することにします。
科学においては証明が鉄則です。天文学や進化学など証明が難しい分野もありますが。一方の道徳は、証明という行為には根本的になじみません。道徳的に生きれば幸せになれるのか。不道徳に生きれば不幸になるのか。そんなことは証明できません。だからこそ「主観」と「客観」という二極分類を選びました。今も昔も科学を否定する人は道徳を持ち出しますので。地動説裁判とか。

(4)疑似科学を批判するのも道徳に基づく行為である
これは当然の指摘です。私がなぜ疑似科学批判を行うかと言うと、現実に疑似科学による被害が出ているからです。例を挙げると、何の効果もないEMによる放射能の除染に貴重な地域の労力、時間、予算が奪われています。このような被害を少しでも減らしたい、疑似科学により困った目に会う人を少しでも減らしたいというのが動機です。大げさで胡散臭い表現をすれば、ささやかながら社会正義に貢献したいからです。これは私の道徳です。それに問題があるのでしょうか? 私の主張は間違っているのでしょうか?
私は道徳そのもの、あるいは道徳に基づき行動することを批判しているのではありません。道徳自体が否定されたら、この世は紙幣がケツを拭く紙にもならない世界になってしまいます。都合よく道徳を用いて疑似科学を正当化することを批判しているのです。結果として科学的に間違った行動を取っているからこそ批判しているのです。
このような安易な相対主義はいつでもどこでも見掛けます。ネット上では「妖怪どっちもどっち」などと呼称されているようです。

以上より、前回の記事には考察不足、説明不足の点がありましたが、特に修正する必要はないとの結論に至りました。引き続き批判をお願いします。


前回も少し書きましたが、疑似科学の背後には必ず社会問題があります。現在の科学では解決できない問題がある。しかし、疑似科学ならいとも簡単に解決できる(提唱者はそう主張している)。ならばこそ、疑似科学を選ぶ。疑似科学信者の真理を邪推すると、こんなところでしょうか。

例え宣伝通りの効果がなくても、問題解決のために高い意識を持って行動しているのだからいいではないか。何も行動せずに批判ばかりしている意識の低い人間は黙っていろ。

最後に、EMに対する大々的な批判を行っている私の知る限り唯一の一般書籍、「カルト資本主義斎藤貴男、文春文庫。残念ながら絶版)」からの引用で締めたいと思います。この書籍には研究者によるEMに対する辛辣な批判が縷々述べられておりますので、EM批判に興味のある方は必読です。どうにかして入手して下さい。

P271(比嘉照夫)
「私はEMで、環境を、空気や水や未来のエネルギーを総合的に解決しようと巨視的なことを考え、実行しようとしているんです。それを、知識のプアーな群盲たちが、反社会的だの非科学的だのと言っているんですね」

P272(比嘉照夫)
「私は国家にすごく貢献しているんです。世の中にいいことをしていて、なんで逮捕されるんですか」

P273(EM批判の第一人者である東京農業大学の後藤逸男教授)
「EMのようなイカサマが成立してしまうこと自体、取りも直さず、現代農業に対する警鐘に他なりません。化学肥料や農薬に頼りすぎる現状の問題点は、あらゆる研究者が認識しているしているのですから、ああいうものに農家の方が飛びつかなくてもよい農法を確立しなければいけないと自覚しています」

P274
農薬まみれの農業は、一刻も早く改善してもらいたい。微生物の土壌改良への可能性は否定しない。何かの偶然で、有効に働くこともあるだろう。が、だからといって微生物を崇める宗教を“心理”として押しつけられる社会など、真っ平御免である。
比嘉のEMには、さまざまな人物や団体が引き寄せられていた。新興宗教、政治家、右翼、マルチ商法……。彼らは一様に、金儲けが目的ではないことを強調する。地球を、文明を、EMによって救済するのだという革命的確信に満ち溢れていた。また同時に、だから細かなことはどうでもよい、という態度でも、驚くほど一貫していた。その過程で犠牲にされる人々もいるのではと水を向けても、よいことをしているのに、なぜそんな意地悪を言われるかとでも言いたげに、口を尖らせるばかりだった。

P274
EM関係者たちの強すぎる善意、確信

自分達を批判する連中は皆バカで不道徳だと。疑似科学と道徳の問題がこれ以上ないほど集約されていますね。
そして、疑似科学信者は溢れんばかりの善意に基づき、世の中をより良くするために政治家や行政に積極的に働きかけ、自らの信じる疑似科学を広めようとします。政治家や行政も、ろくに検証もせずに「いいことだから」という理由で疑似科学を受け入れ、広めてしまいます(疑似科学を撥ねつける賢明な政治家や行政担当者も少なからずいますが)。
自民党政権疑似科学を広めないよう用心する必要は大いにあります。こんなニュースを見ると非常に不安になりますが。