バッタもん日記

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日本の主食は本当に米なのか その3-1  −人災としての飢饉 日本編−

前回の記事で飢饉について述べたので、今回も引き続き飢饉について語ります。

1.はじめに
飢饉とは食料不足ですから、当然ながら天候不順や農作物の病気・害虫による食糧生産量の減少が原因となるはずです。ところが、日本のみならず世界の歴史を見渡してみると、必ずしもそうとは言えません。飢饉と食料生産量の不足が一致するとは限らないのです。

ここで、現在の食料事情についてちょっと簡単な計算をしてみましょう。数値の出典は国連食糧農業機関(FAO)です。2011年度の主要な作物の生産量は以下の通りです。100万t以下の位は切り捨てました。

穀物 とうもろこし:8億8千万t、米:7億2千万t、小麦:7億t、大麦:1億3千万t、ソルガム(もろこし・高粱):5000万t
いも類:じゃがいも:3億7千万t、キャッサバ:2億5000万t、さつまいも:1億t、ヤムいも:5600万t
その他 大豆:2億6千万t、バナナ:1億t

合計すると35億tを超えます。これを世界の人口70億人で均等に分けると、年間500kg以上になります。作物の種類により栄養価は大きく異なるので単純な合計はあまり意味がありませんが、簡略化のため敢えてそのまま計算します。
現在の日本人の平均米摂取量は年間約60kgです。これを1日当たりに換算すると、1合強です。年間500kgとは、強引に米に換算すると、1日当たりで9合強です。1日3食として、1回3合強です。さらに、ここで集計していない作物も加わります。どう考えても十分な量ですね。というよりは過剰です。相撲取りかプロレスラーのような食事です。数字の上では、現在の世界で飢餓に苦しむ人間が出るはずはありません。数字の上では。

ところが、実際には世界で数千万人、数億人が飢餓に苦しんでいます。食料は足りているはずなのに。理由は簡単です。分配の問題です。日本を含めて先進国が金に任せて食料を必要以上に買い漁り、挙句の果てに「食べ切れないから」とか「賞味期限が切れそうだから」という理由で大量に食料を廃棄しているからです。また、古今東西人間は生活水準が向上すると、畜産物を食べたくなります。畜産物を生産するにはその数倍の量の飼料が必要となります。身も蓋もない表現を用いれば、畜産物は食物の浪費です。先進国における畜産物消費は食料事情を悪化させています。
現状では、先進国における飽食と、発展途上国における飢餓が同時に存在していると言えます。簡単に言ってしまえば、現在の発展途上国の飢饉は、先進国による搾取が大きな原因です。発展途上国は貧しいのです。貧しいから食料が買えず、飢えに苦しむのです。日本が「平成の米騒動」の際に諸外国から米を大量に緊急輸入したこととは好対照です。金さえあれば、食料不足に陥っても餓えから逃れられるのです。
ノーベル経済学賞を受賞したインド人経済学者、アマルティア・センによる、「貧困と飢饉(Poverty and Famine)」という書籍のタイトルが全てを説明しています。さらに言うと、飢饉は政治と経済の失敗の産物です。極論すれば、人災です。
2回に渡って、「人災」という観点から日本と世界の歴史における飢饉の事例を述べたいと思います。今回はまず日本についてです。

2.室町時代・戦国時代
最近、ネット上で室町時代・戦国時代の無法地帯ぶりが時々話題になるので、私も調べてみました。そして、この時代の恐ろしさに驚き呆れました。私の脳内の「戦国時代」のイメージが一変してしまいました。己の無知を恥じるのみです。「飢饉」をキーワードとして、この時代の概要を述べます。
参考
戦国時代は徴兵制だったのか?(togetter)
室町時代の行動倫理あれこれ(togetter)
室町時代の寺社関連の事件について(togetter)
無礼討ちについて(togetter)

(1)飢饉が常態化していた
この時代は世界的に気候が寒冷化しており、それに伴って天候が不順でした。冷害、干ばつ、洪水、台風など、気象災害は当たり前で、常に日本のどこかで飢饉が起こっていました。そのため、農民は農業だけで生計を立てるのが難しくなっていました

(2)戦争が多発していた
戦国時代だから当然と言えます。ただし、「戦国時代の戦争」というと、我々はつい「戦国大名同士の戦争」を想像してしまいますが、実際には「農民同士の戦争」も多発していたようです。具体的には、共有資源である川や山林を巡る争いです。川は水源であり、山林は木材や燃料、肥料や牛馬の飼料(草)を得るための貴重な場所です。上記のように飢饉が頻発している状況では、農民は生きるために必死です。さらに、1588年に豊臣秀吉が刀狩を行うまで農民は武装していましたから、流血沙汰も珍しくなかったようです。

(3)人間の命が軽かった
飢饉・戦争に加えて疫病も深刻でした。人は簡単に死にました。そのため、人命が非常に軽視されました。人を殺すこと、自分が死ぬことがあまり大きな意味を持たなかったようです。これが戦乱を加速させてますます人が死ぬという悪循環を生みましたまさにマッポーの世。

(4)戦争が飢饉を生む
戦争が起こると、地元の農民にとって大きな負担となります。戦力・労働力として人員を提供しなければならず、労働力を奪われます。食料の供出も求められます。農村が戦場になると、家族が殺されたり拉致されたりします。貯蔵中や収穫前の食料、農作業用の牛馬が奪われます。農地や農業インフラが破壊されます。かくして、戦争の度に農村の飢饉が深刻化しました

(5)飢饉が戦争を生む
ならば、農民は戦争を嫌っていたのかというと、全くそうとは言えないのが恐ろしいところです。飢饉が当たり前の状況ですから、普通に農業を行っていたのではとても生きていけません。金や食料が足りません。ではどうするか。簡単です。「戦争に参加して他人から奪う。口減らしを行う」です。言い換えれば、戦国時代の戦争とは、「農民が飢饉の時代を生き残るために選んだ生き残りの策」です。上に述べたように、人を殺すことも自分が殺されることも厭わなかったのですから。農民が戦場での略奪で生計を立てるのは当然の習慣でした。さらには、完全に農業を捨ててゲリラ兵、傭兵になる者も全国で多数いたようです。
越後の雄、上杉謙信は関東の雄、北条家の領土に繰り返し侵攻していますが、多くの場合食糧不足に陥りやすい時期に侵攻しており、毎回北条領の農村で過酷な略奪を行っていたようです。また、武田信玄が領民に支持されていた理由の一つとして、戦に強いので戦場での略奪が行いやすく、領民が裕福になれたから、という点もあるようです。私は今回資料を読み漁って、戦国大名に対するイメージが瓦解しました。

(6)富の偏在
日本中で庶民が飢餓に苦しむ中、首都である京都では武士や貴族、僧侶が美食に耽っていました。ちょうどこの時代は和食の原型が成立しつつある頃で、華やかな本膳料理が饗されていました。先に述べた現代の状況にも通じる経済格差が生む飢饉ですね。
あろうことか、上流階級の間では宴会の際に暴飲暴食により嘔吐することが「当座会(とうざのえ)」と呼ばれ、座興として称賛されていたようです。飲み過ぎ、食べ過ぎるぐらい、楽しくて酒も料理も素晴らしい、という賛美を表す行為だったのでしょうか。美食を極めた古代ローマでは、宴会の際に満腹になると嘔吐してまた食べる習慣があったとされています。人間の考えることは古今東西あまり変わりませんね。

(7)人身売買ビジネス
戦場での人さらい、奴隷狩りは当たり前の行為でした。手っ取り早く金になりますので。現在の貧しい発展途上国で誘拐ビジネスが成立しているのと同じです。拉致した人々を解放することで身代金を得る、奴隷商人に売却する、等々。奴隷は外国まで売り飛ばされることもありました。何とこの時代には、東シナ海南シナ海を経由して、東アジアから東南アジアに広がる広大な奴隷貿易ネットワークが成立していたようです。飢饉の時代に奴隷を海外に輸出するのは、広い意味での口減らしです。フィリピンのマニラなどでは奴隷や傭兵という形で流入してきた日本人が大勢力となり、当局(宗主国のスペインが設置したフィリピン総督)による警戒の対象となっていたという記録があるそうです。折からの朝鮮侵略も相まって、日本によるフィリピン侵攻とそれに呼応した日本人の暴動が懸念されていました。

(8)豊臣秀吉の政策
戦国時代を一端終わらせたのは豊臣秀吉です。秀吉は天下統一とほぼ同時に、大規模な土木工事を数多く行います。伏見城聚楽第方広寺(後に徳川家康に難癖を付けられた)などです。また、朝鮮への侵略を開始します。これらの政策の理由は色々あるのでしょうが、貧困対策という面もあるようです。貧しい農民にとって、戦争は稼ぎ所です。戦争がなくなれば農民は生きていけません。その対策として、国内での戦争の代わりに大規模な公共事業や朝鮮への侵略を行ったとも言えます。日本軍の朝鮮における略奪・拉致は凄まじいものだったようです。

(9)しかし………ちょっと脱線
縷々述べたように、戦国時代は過酷な時代だったようです。ならば、何の救いも実りもない地獄のような時代だったのかと言うと、これもまた違います。歴史の面白い点と言えるかもしれません。研究者でもない私には偉そうなことを語る資格はありませんが、今回室町時代・戦国時代についてほんの僅か調べてみて、歴史は一面的で単純な解釈を許さないということがよくわかりました。少々長くなりますが、明治大学商学部准教授、清水克行博士による書籍「大飢饉、室町社会を襲う!(吉川弘文館)」から引用します。

一休にせよ世阿弥にせよ、室町時代を代表する思想家たちは、いずれも大飢饉の経験を経ることで、自らの思索を宗教、芸術へと昇華させたといえるかもしれない。そう考えたとき、飢饉や飢餓の問題は、たんなる社会経済史分野の問題にとどまらず、室町時代の精神や室町文化の神髄を理解するうえでも、きわめて重要な要素であった(中略)。いってみれば、日本の伝統文化の“光”は大飢饉という“闇”からこそ生まれ出たものなのである。(P5)

大飢饉がその後の日本社会に果実を探そうとするならば、それは間違いなく、こうした村々の結束をうながし、いまにも続くような地域の伝統的な年中行事を生みだしたという点をあげるべきだろう。
室町時代という時代は、その後の日本の伝統社会をかたちづくるような“村”や“町”が歴史上、初めて明確に姿を現すようになった時代としても高く評価されている。そうした“村”や“町”は、高度経済成長期(1960年代)までは列島のそこかしこにふつうに見られ、そこで行われていた盆踊りや秋祭り、寄り合いの習俗などは、中世や近世、近代という歴史区分を超えて、ながく日本社会の基層文化をかたちづくっていった。(P207)

3.江戸時代
(1)米という「商品」
江戸時代では、農民は税金(年貢)を米で納めるのが原則でした。各藩に納められた米は江戸や大坂などの大都市に集められ、全国に流通しました。米は最大の食料であり、最大の製品でもありました。米価が景気を大きく左右しました。徳川家八代将軍である吉宗は米価の維持に苦労したことから、「米将軍」との異名を得ました。米は国家の政治・経済を大きく左右するビジネスの道具だったのです。時代が進むと、農民の一揆の矛先が大名や役人ではなく商人に向かう傾向が強まったとされています。
江戸などの都市部では地方より米価が高いので、藩も、商人も、農民も、米を保有する人々は、自分達で食べるより都市部で売りたがります。かくして地方では常に米が不足気味でした。また、米不足が生じて米価が上がると、誰もが米の売り惜しみを始めて米価の更なる上昇を狙います。これが米不足に拍車を掛けます。
江戸時代の後半になると、各藩は参勤交代や幕府に命じられる土木工事の負担により、財政が悪化して行きました。さらに農村にも市場経済が浸透し、農民といえども現金収入が必須となりました。これらの要因により、米の地方から都市部への流出がますます進んだと言えます。
今日米を売れば明日困ることは誰の目にも明らかなのに、目先の金に目がくらんで米を売ってしまう。日本全体が市場経済に対して未熟、無防備であったことによる悲劇だと言えます。

(2)米の栽培上の問題
江戸時代は全体的に気候が寒冷化しており、時代や地域による変動はあるものの、東北日本での米の栽培は厳しい状況になっておりました。そのような場合、冷害に強い米の品種や雑穀、いも類を導入すればある程度は飢饉に対応できます。しかし、日本全体の米消費量の増加や各藩の財政悪化のため、味が良く、収穫量が多い米の品種に頼らざるを得ませんでした。しかし、概してそのような品種は冷害に弱く、飢饉を拡大させる可能性があったのです。米に固執したことにより飢饉が深刻化したことは間違いありません。

(3)幕府の衰退(政治の失敗)
1)享保の大飢饉
1732年に、西日本一帯に享保の大飢饉が発生しました。この時の将軍は上に述べた八代吉宗で、積極的に西日本諸藩の救済に当たりました。そのため、飢饉の深刻さに対して被害をある程度抑えることに成功しています
余談ですが、吉宗はこの時に蘭学者青木昆陽に命じてサツマイモの普及に努めており、西日本に定着しました。サツマイモは面積当たりのエネルギー生産量が米より高く、天候不良にも強いため、西日本の人口を増やすことに成功しました。前回述べましたが、これが明治維新における西日本諸藩(薩長土肥)の躍進につながった可能性があります。
今回の記事で私が吉宗の業績を強調している理由は、私が和歌山県生まれであり、吉宗は郷土の英雄だからです。どうでもいい話ですが。

2)天明の大飢饉
1783年から1787年まで、東北地方の冷害などに代表される天明の大飢饉が発生しました。この時期は十代将軍家治の死去と、若齢の十一代家斉の即位、老中田沼意次の失脚と松平定信の老中就任など、政治的な混乱が生じておりました。そのため、享保の大飢饉の際のような幕府の指導力は望むべくもなく、飢饉は凄惨を極めました。以降、幕府は飢饉に対してほぼ無策になります。
一方、白河藩(現福島県)では、上に述べた松平定信の指導の下、どうにか飢饉を乗り切ることができました。
結局、飢饉への対応は政治次第だということですね。

4.大正時代(米騒動
1918年(大正7年)にいわゆる米騒動が起こりました。米価の暴騰に対する庶民の困窮が直接の原因です。この背景には、明治維新以降の急激な人口増加に伴う米不足の問題があります。既に国内で米を自給できなくなっていたので、朝鮮、台湾、東南アジアからの輸入に頼っていました。特に大きな輸入先が、ベトナムビルマ(現ミャンマー)、タイでした。
米の国内生産量、輸入量、景気の動向などの影響を受け、米価は不安定でした。また、この時期は第一次世界大戦の終盤であり、インフレが進行していました。さらに、陸軍はシベリア出兵に備えて大量に米を調達しました。一方、ベトナムはフランスの植民地で、ビルマはイギリスの植民地でした。宗主国であるフランスとイギリスは戦後復興のために本国や植民地に大量の食料を必要としており、米の輸出を厳しく制限しました。また、これにより東南アジア一帯におけるタイの米への需要が高まり、タイで米不足が生じました。そのため、タイ政府も米の輸出を厳しく制限しました。そのため、東南アジアからの米の輸入量が激減しました
以上の理由により、米不足が深刻化して米価が暴騰したため、全国各地での暴動につながりました第一次世界大戦ロシア革命という国際政治上の事件が米不足の原因となったわけです。

5.参考文献
この「日本の主食は本当に米なのか」という記事を書くための資料代がいささかとんでもない額になっております。ここに挙げた書籍でもまだ半分にもなりません。私が独身貴族だからこそできる技ですね。
(1)全般
アマルティア・セン著、黒崎卓・山崎幸治訳 貧困と飢饉 岩波書店
(2)歴史人口学
鬼頭宏 図説 人口で見る日本史 縄文時代から近未来社会まで PHP
鬼頭宏 人口から読む日本の歴史 講談社学術文庫
速水融 歴史人口学で見た日本 文春新書
浜野潔 歴史人口学で読む江戸日本 吉川弘文館
(3)室町・戦国時代
清水克行 大飢饉、室町社会を襲う! 吉川弘文館
清水克行 喧嘩両成敗の誕生 講談社選書メチエ
下重清 〈身売り〉の日本史 人身売買から年季奉公へ 吉川弘文館
藤木久志 新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り 朝日選書
藤木久志 飢餓と戦争の戦国を行く 朝日選書
黒田基樹 百姓から見た戦国大名 ちくま新書
(4)江戸時代
菊池勇夫 近世の飢饉 吉川弘文館
有薗正一郎 近世庶民の日常食 海青社
渡辺尚志 百姓たちの江戸時代 ちくまプリマー新書
渡辺尚志 百姓たちの幕末維新 草思社
(5)大正時代
大豆生田稔 お米と食の近代史 吉川弘文館

次回は、海外における飢饉の事例について述べます。えらく時間が掛かりそうですが。中国の大躍進政策の説明など私ごときの手に負えるとは思えないので、程々で妥協します。