バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

科学は疑似科学に勝てません(続)

前回に引き続いて、疑似科学が支持される理由を考えてみます。また、前回の記事では「優しさ」という言葉の定義について指摘を受けたので、こちらも考え直します。

私は、疑似科学の優しさは次のような点にあると考えます。

(1)願望成就を確約する
簡単に言うと、「私の言う通りにすれば貴方の願いは叶います」ということです。腐った米のとぎ汁を飲めば放射能の害を防げるので、原発事故の影響を気にせず健康に暮らせます。EM団子を海に投げ込めば水がきれいになるので、環境保護に貢献できます。願いは全て叶います。何も根拠がなくても科学的に不可能でも確約してくれます。疑似科学は夢を叶えてくれる(夢を見させてくれる)のです。科学者にはこんな芸当はできません。「無理なものは無理」とはっきり言ってしまうのが科学者という人種ですから。

(2)承認欲求を満たす
私は以前、腐った米のとぎ汁の信奉者に「放射能を防ぐ効果があると証明しろ。衛生的に安全だと証明しろ」と要望したところ、「好きでやっていることなのになぜ批判されなければならないのか。やる気をそぐようなことを言うな」と反発を受けたことがあります。不可解かつ興味深い反応だったのでよく覚えております。
この方の心理状態を邪推するに、「私は誰かに認めてもらいたくて、褒めてもらいたくて米のとぎ汁を実践している。だから批判なんてされたくない」ということなのでしょう。疑似科学を実践していると、提唱者や仲間に認められ、称賛されます。つまり、疑似科学が自分の評価を上げるための手段となっているわけです。
酷い人では、疑似科学がレゾンデートルになってしまっています。自分が自分であるためには、疑似科学を信奉・実践しなければならないわけです。

(3)優越感を植え付ける
カルト教祖が信者を獲得する口上としては、「俺に従えば極楽に行けるぞ」という「飴」と、「俺に従わなかったら地獄に堕ちるぞ」という「鞭」がよく用いられます。つまり、「信者をおだてる」か「非信者をバカにする」ということです。
疑似科学者も全く同じことをしています。極論すると、「俺を信じるお前達は英知に溢れている、セレブだ、真実に目覚めた新世代だ」と信奉者を絶賛するわけです。同時に、「俺を信じない奴らはバカだ、クズだ、真実から目をそらす遅れた人種だ」と批判者を罵倒するわけです。こうして優越感を植え付けられます。
したがって、信奉者にとって、「科学的に間違っている」という批判は全く無意味です。「私は古い科学に縛られない。現在の科学の方が間違っているのだ」と反論されればどうしようもありません。つまり、「科学的に間違っている」こと自体が自らの正統性、優越感の根拠になってしまっているのです。
「禍転じて福と為す」のような、「新キン肉バスター」のような、偉大なる逆転の発想と言えましょう。

(4)断言する
誠実な科学者は、余程の強固な根拠がない限り、断言を極力避けます。自然界はあまりに複雑で、何が起こるかわからないからです。例えば、次のようなやり取りが考えられます。

患者「私のガンは治りますよね?」
医師「5年後の生存率は○○%です」

市民「福島の農産物を食べても大丈夫ですよね?」
科学者「リスクは0とは言えません」

市民「このダムを造れば全ての洪水を防げますよね?」
科学者「100年に1度の大雨が降った場合はわかりません」

これは考えようによっては、非情に煮え切らない態度と言えます。極論すれば、「断言しないのは自信がないからだ。頼りない」となってしまいます。科学者が明確な結論を出さない以上、最終的な判断を自分で行わざるを得ず、判断の責任を取らねばなりません。これは非常に面倒な話です。

一方の疑似科学者は、何の根拠もなしに、大いなる自信を持って断言してくれます。考えようによっては、「頼もしい」と言えます。迷える子羊を導いてくれる偉大なる指導者です。信奉者は何も考えずに疑似科学者の指示に従うだけで良いのです。これは非常に気楽な話です。


以上の4つの理由の分類は全く厳密ではなく、相互に結び付いているはずです。
まとめると、疑似科学は「夢を叶えてくれて、褒めてくれて、特別扱いしてくれて、頼もしい」わけです。非情に「優しい」存在と言えます。一方の科学は完全にこの逆ですから、非情に「冷たい」存在と言えます。

自分で書いてみて驚きましたが、疑似科学は本当に魅力的ですね。信じる人が後を絶たないのも納得です。こんな記事を書いている私も偶然今のところは疑似科学を信じていないだけで、いつ何時疑似科学の罠にかかるかわかったものではありません。

思い付くままに書いてみましたが、こんなところでしょうか。何か思い付き次第、随時追記します。