バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

震災1年後に思うこと

私は農業に関わる仕事に就いております。
一昨年から続いているTPP騒動に関して、「農業は日本の産業のごく一部に過ぎない。農業保護のために国益を損なってはならない」という論調が根強く見られるのは非常に残念です。
都会では農業が産業に占める地位は非常に小さいので、農業が衰退しても経済的にほぼ影響はありません。ところが、農業以外に目ぼしい産業がない地方などいくらでもあります。農業の衰退は地域の衰退を意味します。
これは、紛れもなく「都会」による「地方」の切り捨てです。

全く同じ構図が福島原発の事故にも見て取れます。

当然ですが、事故の際に被害が及ばないように、原発は都会からできるだけ遠い地方に造られます。つまり、都会は地方に原発という危険物を押し付けて、自分達は電力という上前をはねているわけです。

さらに、福島の農産物や瓦礫を排除しようという運動(圧力)も盛んです。これも、原発事故の負担を地方に押し付けて逃げようとする考えです。

日本全国の原発を全て閉鎖しようという運動が起こっています。これは地方の負担をなくすという意味では正論ですが、原発補助金のおかげでどうにか維持できている地域に滅びろというのでしょうか? 原発に代わる産業を提案できるのでしょうか?
「地元の人間は金と引き換えに魂を売った。原発利権に飛び付いた。自業自得だ」という人は少なからずいます。それでは、地元の反対運動を金で封じ込めて、自分達のために電気を作らせているのは一体誰なのでしょうか? 東京電力や政府が勝手にやったこと? 自分達は原発で作られた電気を使っていなかった? 事故後真実に目覚めた? 自分達も加害者に含まれるという自覚がない?

我々都会の人間は、地方に原発を押し付けた責任として、福島の農産物や瓦礫を受け入れる義務があります。もちろん、安全性には最大限の配慮が必要ですが。


脱原発運動が一部で非常に盛り上がっています。日本にこれほどまでにアジテーター(デマゴーグ)がいるとは想像もしていませんでした。しかし、国民的運動と呼ぶには程遠いと言わざるを得ません。
理由は簡単です。既に日本社会は原発の電力に依存しており、原発なしでは経済が破綻することが周知の事実となっているからです。「原発なしでも電気は足りている」と言う人が後を絶ちませんが、これは日本が国を挙げて必死に節電を行っているからだということが想像できないようです。そのため、経済が悪化していることも。
さらに、「経済より原発を廃止することが大事だ」と唱える人もいます。原発を止めたせいで経済が悪化し、自分や家族が失業しても同じことが言えるのでしょうか。
脱原発運動家は甚だしく想像力が欠けているという気がします。

つまり、「脱原発を唱えるならば、日本が原発なしでも成り立つような対案を出せ」ということです。「原発利権」を繰り返すだけが能ではないはずです。
原発のように危険な物は当然ながら存在しないに越したことはありませんが、不幸なことに既に原発は存在しています。原発を今すぐになくすことより段階的廃止を目指すべきでしょう。脱原発を決定した国々も、基本的は段階的廃止の立場を採っています。
残念なことに、急進的な脱原発運動家にとっては、段階的廃止論者は原発推進派と同様の存在のようです。「味方以外は全て敵」というのはカルトの典型のような気がします。

最後に、脱原発運動に参加している方々は、自分達の行動が世間にどのように見られているかを少しは考えるべきだと思います。
YouTubeで「脱原発アルゴリズムデモ行進」という動画を見ましたが、私は「不愉快・気持ち悪い」以外の感想を抱きませんでした。まるでかつてのオウム真理教パナウェーブ研究所の信者を見ているような気分です。こういう点でも、脱原発運動にはカルト性を感じてしまいます。
日本に原発が多数造られたのは、それだけ日本社会が原発を必要としていたという証明に他なりません。そして、既に日本社会は原発なしでは成立しづらくなっています。この厳然たる事実を無視して政府や東電を揶揄したところで何の意味もありません。